アメリカで売ることを考えた結果、世界的な大ヒットに。
フェアレディZは、それまでのダットサンフェアレディに変わって’69年に登場。その後もモデルチェンジを続け、途中2年間のブランクはあったものの、現在新しいZが登場して世界的にも話題になっている日産を代表するロングセラーのスポーツクーペだ。
日本離れしたスタイリッシュなデザインのボディは、日本のみならずアメリカを含めた世界中で愛されており、’78年のモデルチェンジまでに初代モデルのみで55万台以上をセールスを記録している。その多くが日本国内ではなく北米でのセールスだったのだ
フェアレディZ誕生の大きなきっかけとなったのが、ミスターKの愛称で多くのZファンに親しまれた片山豊氏だ。当時片山氏は北米日産の社長を務めており、北米市場でダットサンブランドを象徴するイメージモデルが必要と考え、日産の開発陣に新たなスポーツモデルの開発をリクエスト。
こうしてフェアレディZは生まれたのである。つまりフェアディZはアメリカでのセールスを考慮して開発した結果、日米のみならず、世界中でヒットし、日産を世界に知らしめる大きな力となったのだ。
北米市場ではそれまでのダットサンフェアレディも輸出されていたが、イギリス製のライトウエイトスポーツの二番煎じとなってしまい、役不足であると考えていた。そこで片山氏は、ジャガーEタイプやポルシェ911のような流麗なボディを持つスポーティな高級GTクーペをイギリス車やドイツ車よりも廉価に販売することで、北米市場の開拓を画策したのだ。
日本車でありながらアメリカを感じさせるフェアレディZ。
フェアレディZを開発していた’60年代の後半というと、一般的な日本車は、ラダーフレームに四角いボディを懸架する構造が多かった。そんな時代にロングノーズ&ショートデッキのお手本のような流麗なボディデザインを採用し、ボディ形状もモノコック構造を採用。四輪独立懸架のサスペンションを持つ当時としては最先端のスペックとなった。
ちなみにフェアレディZが登場した’69年にデビューを飾った他の日本車というと、いすゞベレットGTRやマツダルーチェロータリークーペ、ホンダ1300 99S、スカイラインGT-Rなどが挙げられる。’67年に先行デビューしていたトヨタ2000GTという例外を除けば、いかにフェアレディZがスタイリッシュで先進的なパッケージだったかが判るだろう。
一方で搭載されるエンジンは、扱いにくいスポーツエンジンではなく、あえて直列6気筒のSOHCエンジンを採用した。日本国内向けには税制の問題から2リッターのL20が用意されたが、北米向けには最初から排気量を拡大し2.4リッターのL24が用意された。
決してスポーティなエンジンではなかったが、低速からトルクフルで扱いやすいエンジンは、大排気量エンジンの多いアメリカ市場では馴染みやすく好評だった。その後も北米仕様は’74年に2.6リッター、’75年に2.8リッターと徐々に排気量を拡大。初代モデルを販売した約10年間で北米市場でのダットサンブランドの知名度を大きく上げる結果となったのだ。
ちなみにフェアレディZと呼ばれるのは日本国内のみで、北米市場などでは「DATSUN Z(ダッツンズィー)」と呼ばれた。現在でもアメリカでは初代DATSUN Zのファンは多く、ノーマルの状態をキープした個体はもちろん、V8を換装したカスタムまで数多くのZが現存している。
日本車でありながらフェアレディZにアメリカを感じてしまう理由はこんなところにあったのだ。
(出典/「Lightning2023年5月号 Vol.349」)
Text/D.Katsumura 勝村大輔 Photo/Nissan Motors
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