「Pt.Alfred」代表・本江浩二さんにとっての「カントリー貿易」代表・吉井譲二氏との馴れ初めとは?
「1970年代中頃。地元高岡で伝説の洋服屋だった、「リトルマギー」のアルバイト時代からお付き合いさせていただいてます。現在もあちこち飛び回りながら本物で実用的なアメカジの現役伝道師、吉井譲二さん。1988年、東京・神田に「メイン」を開店することをはじめ、オリジナルブランドとして「カムコ」「バギー」「キングスウッド」など、歴史ある本物を掘り起こし生産を手掛ける大先輩です。ボクもあちこち廻ってる方だと思ってますが、ほとんどの会場で吉井さんとお会いします。出会った50年前から、ほぼ変わらないスタイル、自分でアイロンをかけた長袖シャツにベスト、チノパンにモカシン。本当に身に付いた服を着ることは、粋でかっこいい。大人の見本です!」(本江さん)
ファッションへの目覚めはやはりVANだった
幼少期からアメリカントラッドへ興味を持ち、業界でのキャリアは55年を数える吉井さんも、実質的なきっかけはやはりVANだったと当時を振り返る。
「子どもの頃からとにかく洋服が好きでした。仕事として意識し始めたのは高校時代、まだ日本橋にあったころのVANやKENTの会社での検品などのアルバイトを始めたのがきっかけです。その頃にはすでにJUNなどヨーロッパを意識した国産ブランドが台頭し始めてはいましたが、僕はやはりアメリカものが好きでした。
大学へ進学してからは、KENTで本格的に働き始めたのですが、そこで出会った先輩方や店へ来る営業の方や販促の方などが皆、すごくおしゃれで。彼らが履いている「フローシャイム」や「セバゴ」「バス」「ケッズ」などのアメリカ製の靴にものすごく憧れ、次第に靴やインポートウエアに給料のすべてをつぎ込むようになりました」
大学を卒業した1972年、吉井さんは新進貿易という神田の貿易商社に籍を置き、インポーターとしてのキャリアを本格的にスタートさせる。
「入社とほぼ同じタイミングで沖縄の基地にアメリカの商材を納入していたアメリカの業者と知り合い、そのコネクションから日本で初めてとなるコンバースの営業を任されました。もちろん主要な営業先はアメ横です。
当時は飴や横丁ではなく、アメリカ横丁と勘違いしていたほど、僕にとってのアメ横はアメリカの生きたユースカルチャーを体感できる特別な場所であり、三浦商店(現シップス)やルーフ、花菱、丸金、モリヤ、松下屋などの小売店が、まだ戦後の空気が残る路地に軒を連ねていました。
そんな店のスタッフなどには現役のサーファーが多く、いわゆるトレンドリーダーでもありました。彼らのコネクションを頼りに神田にあったテッドサーフショップや、鎌倉デュークや藤沢JSBのサーフショップ、新宿と銀座にあったモビーショップ、神戸・三宮にあったREDといったショップにも営業先を広げていきました。そこからオシュコシュ、リー、カレッジエイト パシフィックなど、ウエア類まで取り扱いブランドを広げていったのです」
とはいえ、当時国内に正規代理店という概念はまだなく、吉井さんも知り合ったサンフランシスコのシッパーに現地のカタログを請求し、そのわずか数冊のカタログを手に販売先を廻って営業する日々。そんな新進貿易在籍時代の集大成とも言えるのが、75年のミウラ&サンズ、そして77年のシップスへと続く三浦商店との蜜月だったという。
「アメ横の中でもとりわけ名門となっていた三浦商店の事業拡張は、僕のキャリアにおいて重要なターニングポイントとなりました。あの頃は僕らのようなインポーターと小売店が二人三脚で事業を拡大していくのが当たり前の時代だったんですね。とはいえ、所帯が大きくなることで顧客のニーズが良くも悪くも分散していきました。
アメリカンカジュアルだけでなく、フランスやイタリアなどヨーロッパものへの関心が高まる中にあっても、やっぱり僕はアメリカものから離れられなかった。自分の初期衝動を抑え切れなかったのですね。そこで11年籍を置いた会社を離れ、単身インポーターとして独立し、再びアメ横をメインにビジネスを始めることにしたのです」
消えゆく本質と魂。その保全を目指して
80年代、次なる世代によるアメカジのリバイバルにより、アメカジの源流にして、メッカでもあったアメ横も再び活気づいた頃。吉井さんは自身のショップを東京・神田の明治大学前にスタートさせた。
「独立当初は僕の興味がシャツに集中していたので、某老舗アメトラブランドのOEMファクトリーを率いていたニューヨークのハワード・グロスマンという男に掛け合い、英国から取り寄せたオックスフォード生地を使った、某社とほぼ同じ製法のシャツを自社のオリジナルブランド「バギー ボタンダウン」として展開していました。
自営店をやるにあたっては、何よりまずお世話になったアメ横や渋谷の営業先に迷惑を掛けたくなかったため、ちょっと離れた学生街でもある神田・小川町で1988年に『MAINE(メイン)』をスタートしました」
アメリカ東海岸北端に位置するメイン州フリーポートは、かのエル・エル・ビーンの創業地としても知られ、旧きよきアメリカの伝統を今でも頑なに守っているブランドのひとつ。もちろん、自身のショップにその名を拝借した吉井さんにとっても、特別な意味合いを持ち、今も毎年のように訪れる、かけがいのない場所でもある。
「当時アメリカでのビジネスチャンスを夢見て、欧州から移住してきた職人たちによるスモールビジネス、スモールショップのメッカでもあり、旧きよきアメリカの姿が今なお残っていることは確かです。とはいえ、そういった言わばアメリカの魂みたいなものが、徐々に消えかかっているのもまた、悲しい事実なんです。
若い世代は皆、ITや投資等に躍起になり、歴史や伝統を顧みようとする思いは少なくなっているように思います。そうして消えていく文化や歴史のあるブランドやファクトリーが後を絶ちません。こういった現象は、もちろんアメリカだけにとどまることなく、世界中で起きています」
衰えることのない服への愛着
かつては軍のサプライヤーとしても名を馳せた「カムコ」、スポーツアパレルの名門でもあった「メイヨースプルース」といったメイド・イン・USAブランドも、そんな時代の流れに翻弄され、いつしか消滅していった。吉井さんは、そんな消滅ブランドのネームはおろか生産背景までをも丁寧に掘り起こし、アメリカ製はそのままに、今の時代感に沿ったアップデートを施す、いわゆる“実名復刻のオリジネーター”でもある。
「僕が今でも毎年のように現地を訪ねるのは、そんな消えゆくブランドやファクトリーに残された職人技や質感を後世に残していきたいと考えているからです。もちろん手間も時間も掛かりますが、より良いものを届けたいという自分の信念を貫くことが、何よりだと考えています。さらに当初から続けている一人旅もまた自分の知見を養うために欠かせなかったと考えています。自分で行って見て触って、自分で交渉してこそ、初めて発見できる何かがあると」
そんな吉井さんにとってアメカジ、あるいは服とはどんな意味合いを持っているのだろう。
「旧いディテールとか仕様にこだわるヴィンテージマニアとは対極的に、僕はあくまで実用品として衣類と付き合っています。365日のなかで360日は毎朝シャツにアイロンを掛けている。そうすることにより、シャツは襟先からほころびが出る事などを知ることができるし、そういうことこそが本来の“愛着”だと思うのです。
同じものを10年着て、ようやく愛着が湧くということを、もっと多くの人に知ってもらいたいし、これからも伝えていきたいですね」
本江MEMO
70年代終わりから80年代にかけて、あの激動の時代。洋服業界には吉井さんみたいな、実直で憧れの先輩たちが数知れずいらっしゃいました。
時は流れ21世紀、事情は変わっても今も当時とまったく変わることなく消えかかった技術やクラフツマンシップを後世へと残すべく“保全活動”と銘打ち、単身生産国へと直接出向き、ファクトリーや職人さんたちと同じ目線でずっとものづくりを続けている。これからも一過性の時流に流されることなく、ものの本質を見極め、これまで以上にエンドユーザーに伝え続けてほしいと思います。
ボクも63歳になりましたが、まだまだ頑張りますよ!
※情報は取材当時のものです。現在取り扱っていない場合があります。
(出典/「2nd 2023年12月号 Vol.200」)
Illustration/Adrian Hogan Text/Takehiro Hakusui
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