青い古着だけを置くいくつかの理由
何だって十人十色だ。古着店にだって、個性がある。
「ミリタリーものが得意」だったり「ヨーロッパ古着のみ」扱っていたり、「アウトドアブランドに絞っている」なんて店もある。中でも中野の『MOSブルー』の個性はひときわエッジィだ。
中野駅から徒歩10分。わずか7坪の店内にはラルフのシャツにリーバイスのデニム、カレッジもののスウェット等々が並ぶ。特別古着として別段珍しい商品ではない。ただ、まさしく“色”が違う。
「すべて青い古着だけを扱っているんですよ」と自身も全身真っ青な服に身を包んだ、オーナーの大間洋一郎さんが言う。
だから店内は青のグラデーションで溢れる。セレクトした商品の状態の良さと白い什器とのマッチングもあり、古着店ではなかなか感じられない爽やかさもある。
聞けば大間さんは、Jプレスなどでエリアマネージャーを担当してきたアパレル出身者。プロのノウハウを生かしてモノがあふれる時代にも埋もれない、超個性的な古着店を生み出したってわけだ。
「まあ、単純に古着が好きで、自分が住む中野の街で楽しい話題が生まれる店をつくりたかったってだけですけどね」
と満面の笑みをたたえたまま、話を続けた。
「あとは長男の存在が、この店づくりを後押ししてくれたんです」
LAでの出会いが、アパレルの入り口になる。
大間さんは1975年生まれ。小5で身長173センチと体躯に恵まれ、スポーツ万能だった。中学校まではサッカー少年。中3のときは未経験なのに、ラグビーの名門で花園の常連・保善高校ラグビー部に入るほどだった。
「1年ちょっとでラグビー部は辞めちゃったんですけどね」
帰宅部となってからハマったのが古着だ。’90年辺りで、ちょうど渋カジど真ん中の頃。レッドウイングやリーバイス517を漁るため、高円寺の『ヌードトランプ』や表参道の『シカゴ』を巡った。
「しかも僕のガタイでも着られるサイズが古着だとあって。当時、アメリカサイズのXLなんて普通の店じゃ手に入らなかったから」
前後してヒップホップに染まり始めたのも影響していた。ラッパーはダボダボのXLサイズを着るのが定番。ヘリーハンセンやGAPを古着とあわせてダブつかせて着こなすのが大間流だった。仕事は最初カリスマ美容師を目指した。ただ美容専門学校に入るも、就職まではしなかった。
「細かな技術職だってことが見えてなくって、向いてないなと」
結局、就職を決めぬまま、卒業旅行もかねて3週間、LAに留学していた友人を訪ねた。友人が大学に行く間、メルローズ辺りのレコードショップとスタバに毎日のように通った。
「今みたいにネットもなく情報も少ないからレコードはジャケ買いでした。好きだったのは『クルマが写っているジャケ』。大体、女性と相乗りしたオープンカーで」
何枚もそんなジャケットを眺めてラテを飲んでいると、隣席のローカルに声をかけられた。
『YO! オープンカーと美女ばっかりかよ。いいセンスだ』
近くのGAPの店員だった。フランクに友人のように接してくれる彼と、すぐに仲良くなった。毎日会ううち、教えてもくれた。
『来年、GAPが東京に店を出すよ。もし好きなら受けたみたら?
帰国後、すぐ応募してスタッフになった。服を売るのを仕事にしたスタート地点はこの1996年。GAPの日本最初のフラッグシップ店、渋谷公園通り店だった。
アウトレットで試した「色分け」の効果。
それまでのアパレルブランドは卸を通して専門店や百貨店が小売販売を請け負うのが定石だった。
GAPは違った。企画から販売まで自社で行うSPA業態の先駆け。スピーディーに仕事が進み、しかも20歳そこそこの大間さんの意見すら上に通った。「デニムの見せ方はこう変えたい」「スウェットを多く揃えたほうが喜ばれる」といった具合だ。
「楽しかったですね。ダイナミックに色々試せる環境でしたから」
その後、GAPの先輩から誘われる形で『Jクルー』へ。さらにオンワードに転職して、オリジナルブランド『フィールドドリーム』や『Jプレス』を担当して、それぞれの店づくりを手掛けてきた。
日本の伝統的なアパレルメーカーだったが、持ち前の現場でアイデアを絞るスタイルを維持した。たとえば、Jプレスの時は、倉庫に眠る在庫を復活させる仕組みをつくった。在庫を掘り売れる組み合わせをして自社の販売員と共に百貨店へ。催事でセール販売するビジネスモデルを仕掛けた。
「それまで催事は外注の配送会社に頼んでテキトーに在庫を百貨店に送るだけで終わり。平場のパート店員が売っていたので、ブランドの良さも世界観も提案できず、売れなかった。もったいなくて」
しかしブランドの良さを知る人間が一声かけると売れ行きが変わった。在庫はみるみる捌け、専門部署まで立ち上がるほどだった。
フィールドドリームでは、アウトレットモールの店づくりを担当した。在庫のみを扱っていただけにコーディネイトを提案したり、アイテムごと美しくディスプレイするのが困難だった。不揃いで、商品に偏りが目立つからだ。
「そこでアイテムじゃなく“色”で商品を置いたことがあるんです。青、緑、赤……と色ごとにコーナーを分けて展示したんですよ」
これが好評。「白いシャツを探している」「赤いアイテムが欲しい」と色で服を探す人は多いものだ。美しく個性的で、そのうえ探しやすいと客の心をつかんだわけだ。この経験が、また自身の店『MOSブルー』に活かされる。
子供と一緒にいる時間を、そして中野と自分のため。
2020年、オンワードを辞めた。会社を飛び出したきっかけのひとつは長男の存在だ。重度多動性発達障害。言葉の遅れと衝動的に体を動かす性質があり、通常の小学校に通わすのが困難だった。家でも外でもできるだけ一緒にいる時間が必要だった。
「なのに妻に任せっきりな面があった。エリアマネージャーの仕事は忙しく、会社都合で時間も拘束されちゃっていたんです」
それならば……と選んだ道が独立だった。自分がオーナーならば働く時間も場所も自ら決められる。じゃあ何をどこで? 考える間もなく好きな古着の店に決めた。そう。「好き」にこだわった。
「あとから一瞬でも『息子のせいで……』なんて思っちゃうの、ダサいじゃないですか。『息子のおかげで好きなことをできた!』と思えることをしたかったんですよ」
商品を青に絞ったのは、先述通り色分けが個性となり、客に喜ばれることを知っていたからだ。古着は卸などを使い、青いアイテムだけピックアップした。
場所は中野に決めていた。自宅と長男の通う支援学校が目と鼻の先にあれば、いつでも彼の手助けができる。加えて、もう一つ。「仲良くしてくれる同級生や親御さん」「やさしく声がけしてくれる民生委員さん」。長男と自分を支えてくれる地元の人たちに感謝の気持ちを伝えたかったからだ。
「中野って意外と古着店も洋服店も少ない。少しでも地域がよくなるお手伝いができるかなと。あとはラックや棚もすべて中野で買った。地域にお金を落としたくて」
こうして2020年10月に『MOSブルー』は誕生した。MOSは自分のO含め、一緒に店を起ち上げた仲間たちの頭文字からとった。もうひとつ「Most Original Style」の当て字でもある。
実際、モノや店があふれる中で、相当に“独創的”だ。「あの青い店なんだろう」「青だけの洋服店があるらしい」。噂を聞きつけ、SNSで話題になり、メディアでも取り上げられるようになった。’21年には緑の古着だけ集めた『MOSグリーン』もオープンした。するとさらに話題になった。
「意外なことに、アイドルやバンドの『推し活』する層にリーチできた。メンバーごとに色分けがあって『緑の服を着てライブに行く』なんて人がけっこういたんです」
今、大間さんは愛すべき中野の街で「黄だけの古着店」や「赤色の古着店」の開店も狙っている。
「そしてレインボー色の街にしたい。誰一人取りこぼさず、何色が好きな人も楽しめるでしょ」
繰り返そう。何だって十人十色だ。古着店もファッションの楽しみ方も、一人ひとりが生まれながらに持つ個性と同じ。バラバラでそれでいいんだ。
【DATA】
M.O.S blue
東京都中野区中野1丁目61-11
営業/10:30〜19:00
休み/月・金曜
instagram.com/m.o.s_nakano/
※情報は取材当時のものです。
(出典/「Lightning2023年8月号 Vol.352」)
Text/K.Hakoda 箱田高樹(カデナクリエイト) Photo/A.Osaki 大崎晶子