創業者は「John Henry Shoemaker(ジョン・ヘンリー・シューメイカー)」。その名の通り、ブーツを作るために生まれてきたのかと思いきや、実は当初はブーツ職人などに全く興味がなかったというから驚きだ。
彼がブーツ作りを学んだのは16歳のとき。当時やっていた新聞配達の仕事が嫌になり、ミシガン州グランド・ラピッズにあった「Rindgen Kalmbach Logie&Co.」で働くことにしたのがきっかけだった。そこでブーツ作りのノウハウを習得したジョン・H・シューメイカーは、1903年に新たなチャンスを求めて西部に向かった。目指す先はシアトルだったのだ。
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オレゴンという環境がタフな靴を求めていた。
しかし、ポートランドに到着した頃、彼の所持金は底をついてしまったが、幸運だったのは、ポートランドのシューズメーカー「Bradley Shoe Company」がブーツの作れる人間を探していたことだった。そこで5年間働いた後、「Goodyear Shoe Company」へと渡り、1918年、遂に彼は家族7人で「West Coast Shoe Company」として独立することとなる。ミシガンを出て15年、ポートランドでWESCOが誕生したのだ。
シューズのメーカーが連なるように存在するオレゴン州において、ウエスコはロガーブーツで業績を伸ばしていった。ミシガン州と同様、山に囲まれたポートランドでも、やはりロガーブーツが主力商品となったのだ。
そして1929年までに4回も移転するほど大きく成長していったが、同年10月に起きた世界恐慌によってアメリカ経済は崩壊。ウエスコも事業閉鎖に追い込まれてしまう。
小さな自宅で再開したブーツ作り。
世界恐慌によって事業も閉鎖に追い込まれ、ブーツ作りの技術以外の全てを失ったジョン・H・シューメイカーだったが、ポートランド郊外の自宅に作った小さな工房でブーツ作りを再開。職人を雇えないことで、良い日でも8足しか製作できなかったが、それをロガー達に売り歩きながら業績を少しずつ上げて、1930年代後半には2400平方フィートの2階建てファクトリーを作るまでに成長した。
さらに第二次世界大戦の影響で、造船業者から〝エンジニアブーツ〞の注文が殺到。アメリカ国内の経済も回復に向かい、それに伴ってウエスコも業績を伸ばした。それも「タフなブーツを作る」という企業姿勢があったからこそ。〝キング・オブ・ワークブーツ〞の精神は、当時から今日まで途切れることなく受け継がれているのである。
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