みゆき族の連中より大阪アイビーが個性的。
三浦さん アイビーというと銀座の「みゆき通り」の「みゆき族」って有名だと思うんですけど、僕、実際にやったことがあるんですよ。16、7歳だったかな。当然お金なんかないので鈍行で大阪から3泊4日でみゆき族やるためだけに東京に来て。寝泊まりは日比谷公園で野宿でした(笑)。そのときに着ていたものは鮮明に覚えていますね。シアサッカーの半袖プルオーバー・ボタンダウン、コットンパンツ、それとわざとボロボロにしたバスケット・シューズ。バンカラな感じが流行っていたので新品じゃなく破いたり汚したりして履いていたんです。
慶伊さん 大阪のアイビーの人はこだわりが強かったからね。
三浦さん あとはマドラス・チェックのボタンダウンも持ってきてましたね。夏場だったんだけど、汗かくでしょう。それで襟元が汚れてくると、襟を内側に折り込んでバンドカラー風にして着てましたね。みゆき通りで何をするという目的があるわけでもなくフラフラしていました。
慶伊さん フーテンだね。
三浦さん そうです。ただみゆき通りにいるだけで、疲れたら座り込んだりして。
慶伊さん みゆき族が出現するのは僕が大学1年生の頃なんだけど、こっちは田舎出身だからね。当時は都会と田舎のカルチャーの差ってものすごく大きい。で、東京に出てきてみゆき族を見たら打ちのめされましたね。だからみゆき族 は僕にとって発奮材料でした。三浦さんは大阪という都会の人だから太刀打ちできるんだろうけど、僕なんかはね(笑)
三浦さん でも実際にみゆき通りに来てみたら、正直東京のみゆき族の連中はあんまりかっこよくないな、と思ったんです。大阪はもっとコアな人、個性的な人が多かったんですよ。日本のアイビーの発祥って僕は大阪だと思っている んです。「VAN JACKET」 創業者の石津さんがもともと大阪だというのもありますけど。
大阪のアイビーは東京に比べてよりコアな人、個性的な人が多かった。
慶伊さん 学生時代は東京の「テイジン メンズ・ショップ」や「三峰」に客として行ってましたけど、22歳で会社勤めを始めて大阪に赴任になって、そこでみゆき族以来のカルチャー・ショックを受けましたね。大阪のショップの人たちから教わることが多かった。大阪のアイビーは独特で「アイビー」って言葉の発音も東京とは違うんです。語尾が上がる。そんな違いをもってして東京の人たちを馬鹿にしてましたね(笑)
三浦さん (笑)。大阪に「香港」というインポート・ショップがあって、そこではポロシャツは〈マンシング〉――僕らは“ペンギ ン”と呼んでましたけど――しか置いていない。〈ラコステ〉はなかったですね。シューズは〈G・H バス〉だけ。あとは神戸にも面白い店がありましたよね。高架下に。
慶伊さん 神戸の元町はインポート・ショップが多かったですね。舶来品を扱う店。アメ横みたいに米軍払い下げのミリタリー・ウエアなんかもあったけど、アメ横よりはもっと洗練された感じだった。そういうのが大阪にも入り込んでたんじゃないですかね。だから大阪にいた22歳から24歳くらいまでは本当に勉強になりました。三浦さんとは年齢は近いですけど、社会に出たのは三浦さんの方が先輩。 三浦さんは「VAN JACKET」のいいところを一番知っていますよ。
VANの時代とその後の三浦さん。
三浦さん 僕が「VAN JACKET」に入社するのが昭和41年、1966年なんです“ワンダーランド”みたいな会社でしたね。むちゃくちゃというか(笑)
慶伊さん ある意味、戦後の日本のメンズ・ファッション文化をつくり上げていったんですよね「VAN JACKET」の人たちは。三浦さんは「VAN JACKET」にはどのくらいの期間務めていたんですか?
三浦さん 5年くらいですかね。生産管理をやって、そのあと1年半くらい商品企画をやっていました。当時細く巻いた〈フォックス〉のアンブレラを持って歩くのが流行ったんですが、商品企画時代にそれをやっていただいていた職人の方――逗子の方なんですけど―― にすごくお世話になって、その縁もあって1972年に東京に移ってデザインに携わるようになりました。
慶伊さん 僕が大阪にいる時代は「菱屋」っていうネクタイの会社に勤めていて、「VANショップ」担当で企画と営業をひとりでやっていたんです。大阪中の「VANショップ」に行ってしごかれましたね(笑)。だから三浦さんとはアメ村あたりですれ違っていたかもしれない。
三浦さん そうですね、場所的にも近いですもんね。
慶伊さん 当時のVANの人は、こういっちゃあ悪いんだけど生意気だったよね(笑)。肩で風切ってアメ村を闊歩していたから。だから僕らはそれを避けて歩かなくちゃいけない(笑)。そのくらい差がありましたね。VANなくしては成り立たないというか。
三浦さん あぁ、そうですね。あったでしょうねそういうのは。
慶伊さん ファッション界のエリートでしたからねVANは。
三浦さん 僕が東京に転勤になる1年前に会社で初めての「アイビー・ツアー」というのがありまして。社内で選ばれた何十人かがロサンゼルスとサンフランシスコに行くというものだったんです。本当はラスベガスの「マジック」という展示会に行けということだったんですが、社長が「マジック? そんなの行かないでいいからディズニーランドでも行って遊んでこい」と(笑)
慶伊さん 遊びに行くのも仕事のうちって感じでしたよね。行かなきゃわからない現地の空気感、カルチャーを持ち帰ってくるという。僕の海外カルチャーとの接点とはずいぶん違うなぁ(笑)
三浦さん そんなアメリカ・ツアーの翌年から東京なんですが、VANのブランド〈KENT〉のデザインを行なったり、アメリカのブランド〈GANT〉のライセンスをVANが手がけていたので、そのチーフ・デザイナーも務めました。〈GANT〉のセールス・コンヴェンションでニューヨークにも行きましたね。それでVAN が事実上倒産する1978年までVANの仕事をして、その後にデザイン会社をやったりしていましたが、やっぱり自分のブランドをやりたいと思い、1992年に〈SOUTIENCOL〉を立ち上げることにしたんです。
アイビーの原型であるジャケット。
3つボタン段返り、センター・フックベント、袖ボタン2つという典型的なアイビー・スタイルのこちらは三浦さん所有の3ピース・スーツのジャケット。 パンツはノープリーツ、ベルトループありのパイプドステム。「55年くらい前に大阪・心斎橋で入手した3ピース・スーツです。このスタイルがアイビーの基本ですね」(三浦さん)
(出典/「2nd 2022年12月号 Vol.189」)
Photo/Yuco Nakamura Text/Kenichi Aono
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