『気狂いピエロ』を観て、自分の映画だと思った。
「もうちょっとデニムの色が残っていればな」とか。「シートがオリジナルなら買ったのに」とか。服でもバイクでも、好きな人ほど細部にまでこだわるものだ。
岡村忠征さんのそれは映画だった。父の影響で小学校の頃からむさぼるように観てきた。ただ周囲が絶賛した『バックドラフト』も『心の旅』も「ツメが甘い」「深みに欠ける」とうるさく評した。
「映画はとにかく好きなんだけれど、いつも作品のどこかに必ず少しの不満があったんですよね」
ただ18歳で観たその1本は違った。地元・広島のミニシアターでのリバイバル上映。極彩色のパーティから始まり、残酷でいて詩的なラストまで疾走する。1965年公開のフランス映画だった。
「ゴダールの『気狂いピエロ』でした。不満は皆無。『俺のために作られた映画だ!』とさえ思った」
それから30年が経った今、自分がゴダールを観せる側に立つ。墨田区菊川『ストレンジャー』。東京の東に初めてできたミニシアターのオーナーになったからだ。
「3年前まで考えてもなかった」
広島の古着店にあった音楽、映画、文化の香り。
映画監督になる。中学の頃から夢はそれだった。そこで高校卒業後は、広島駅近くの古着店でバイトしはじめた。あきらめた、わけじゃない。
「古着店って洋服好きだけじゃなくてカルチャー好きが集まって、いろんな話をしあうじゃないですか。特に地方都市だと同じ人間が同じ古着店やクラブやミニシアターをぐるぐる回っていたしね」
実際、そのころの岡村さんは「染み込みプリントのTシャツの味」と同じ熱量で「ガス・ヴァン・サントの唯一無二の作家性」を日々、語っていた。
「すると、なお『東京に行かなきゃダメだ』と思い始めた。話題に出るカネフスキーの特集上映とかジャン・ルノワールの回顧上映とかって、必ず渋谷や銀座辺りでしか観れませんでしたから」
そこで1996年、20歳でアテもないまま東京へ向かった。
「ココで働かせてください!」
渋谷のカプセルホテルに荷物を置くや、ミニシアターに片っ端から飛び込んだ。「募集してない」「ムリ」。門前払いの中、渋谷パルコの裏にあった『シネマライズ』だけが、首をタテに振ってくれた。
「そこで一緒に映画を撮る仲間を見つけようと、バイトに入るや声をかけまくったんです。ただ意外にも映画好きがさほどいなくて」
ならば……と次に飛び込んだのは東京国際映画祭の事務局員だった。そして打ち上げに忍び込む。
「世界中から集まった映画関係者に声をかけまくったんですよ」
そろそろ、お気づきだろう。岡村さんは行動力が普通じゃないのだ。打ち上げでは、映画祭の委員長として来日していたイランの巨匠アッバス・キアロスタミ監督にインタビュー。「この間、ゴダールに会ったよ」「どんな人でした?」「そうな……」とカタコトの英語でぐいぐい聞き出した。
またそのやりとりを見ていた配給会社の社長が声がけ。「君、面白いね!」とその場で採用される。
「そして配給会社にいながら映画美学校で制作を学び始めました。その学校の縁で黒沢清監督の現場で制作進行として働くように」
上京2年目の1997年。岡村青年は映画監督への階段をすばやく登り始めた。そう思っていた。
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