農場で働く黒人たちの楽しみとして誕生したブルース。
19世紀末にニューオーリンズで生まれたジャズが、管楽器やピアノなどに主軸を置いた音楽だったのに対し、ブルースはギターの弾き語りという親しみやすいスタイルで誕生した。
デルタ・ブルースはすぐにミシシッピの農場で小作人として働く黒人たちの楽しみとなり、やがて街角やジュークジョイント(黒人が集まって楽しむ酒場)を廻って演奏する“ブルースマン”が登場しはじめ、そしてブルースを演奏して生計を立てるブルースマンも増えていき、その代表格がデルタ出身の3人の巨人、ロバート・ジョンソン、マディ・ウォーターズ、B.B.キングだ。
エリック・クラプトンがアイドルとするブルースマン、ロバート・ジョンソンは、1911年5月8日にミシシッピ州ヘイズルハーストで生まれ、1カ所に定住することなく人生の大半をホーボー(渡り労働者)として暮らした。音楽活動を始めるとミシシッピを飛び出して旅を続け、シカゴ、デトロイト、ニューヨーク、そしてカナダにまで足を伸ばして演奏活動を行っている。
1936年11月に、テキサス州サンアントニオで初めてのレコーディングを行い、3日間で16曲が録音された。翌’37年6月の2度目のレコーディングはテキサス州ダラスにあるホテルの一室で13曲が録音され、計29曲の見事なブルース・ナンバーが記録された。これらの曲は、1938年から’39年にかけてシングルとしてリリースされ、『テラプレイング・ブルース』がローカルヒットとなった。
ロバートの曲のテーマは、日常や旅を歌ったもの、ストレートで少し卑猥なラブソング、そして難解な歌詞で悪魔や地獄を歌ったものなど多岐にわたる。すべてギターの弾き語りで、ロバートは歌いながら低音弦でベースラインを弾き、中音弦でリズムを刻み、スライドバーを使って高音弦でメロディを同時に弾きこなすという離れ技を披露している。
後世に多大なる影響を残すクロスロード伝説。
酒好きで以前から女グセに関して悪評の高かったロバートは、ヒット曲が出たことで地元では知られた存在となり、さらに手のつけられない存在になっていく。そして、この女グセの悪さが命取りとなるのだ。
1938年の夏、ミュージシャン仲間のハニー・ボーイ・エドワーズと共に「スリー・フォークス」というジューク・ジョイントで数週間演奏するため、ミシシッピ州グリーンウッドに向かう。この店のオーナーの妻は扇情的な雰囲気を持ち、ロバートの女グセの悪さに瞬く間に火を点けてしまった。
グリーンウッドの町でデートを繰り返す2人の仲は、間もなく店のオーナーである夫に知られることになる。ある夜、嫉妬に狂った夫は、何食わぬ顔で店に出演していたロバートに、毒を盛ったウイスキーの小瓶を手渡す。ハニー・ボーイは「開封されているウィスキーは飲むな!」と忠告したが、ロバートは疑いもせずこれを飲んでしまった。
そして店で倒れた後、もがき苦しみながら2日ほどなんとか持ちこたえたが、その後肺炎を発症。わずか27歳でこの世を去ってしまう。
その後はほとんど忘れ去られた存在となっていたが、1961年にコロンビア・レコードがロバートの音源を『キング・オブ・ザ・デルダブルース・シンガー』というタイトルで2枚のアルバムに収録してリリースする。
当時、ロンドンの南に位置する小さな町で暮らしていた若き日のエリック・クラプトンとキース・リチャーズはこのプリミティブなブルース・アルバムを入手して衝撃を受ける。のちにエリックはクリーム時代に『クロスロード』を、キースはローリング・ストーンズで『ラブ・イン・ヴェイン』をカバーし、ロバート・ジョンソンが残した作品の素晴らしさを世界にアピールした。
ロバートが毒を盛られたグリーンウッドの街から州道49号を北上すると、1時間ほどでクラークスデイルという街に到着する。ここには「ロバート・ジョンソンが悪魔に魂を売った場所」と伝えられる十字架(クロスロード)があり、ここでの「悪魔との取引」によってロバートは超人的な歌唱力とギターテクニックを手に入れたとされている。
もちろんこれは都市伝説だ。しかしロバートが、1936年と’37年に行った2回のレコーディングで残した卓越したギタープレイと鬼気迫るボーカル、そしてクリーム時代にエリック・クラプトンが「クロスロード」を取り上げ、アグレッシブな素晴らしいギタープレイを世界にアピールしたことも後押しして、「クロスロード伝説」は長く語り継がれることになり、多くのブルースファンが世界中からクラークスデイルのクロスロードを訪ねてくるようになったのだ。
エレクトリック・ギターでシカゴ・ブルース黄金時代を切り開く。
ロバート・ジョンソンのブルースに影響を受けたブルースマンの代表格が、マディ・ウォーターズ。マディはロバートのスタイルをシカゴに持ち込み、エレクトリック・ギターで演奏してシカゴ・ブルース黄金時代を築く立役者となる。
ロバート・ジョンソンが毒殺された当時、この事件はメディアで報道されることもなく、数年後、彼の死を知らないまま2人の人物がロバートの行方を探していた。
1人はジョン・ハモンド。彼はビリー・ホリディやカウント・ベイシーから、ボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンといったロック世代まで、多くの優れた才能を世に送り出してきた敏腕プロデューサーだ。彼は1939年カーネギー・ホールで「フロム・スピリチュアル・トゥ・スウィング」というコンサートを企画していた。ジャズやゴスペルのトッププレイヤーが出演するコンサートで、そのステージにロバートを出演させるために行方を探していたのだが、彼は4カ月ほど前に他界していたのだ。
もう1人はアラン・ローマックスという民俗学者で、彼はアメリカの民俗音楽の録音収集・映像記録・研究家として、ワシントンDCで米国議会図書館のディレクターを務めており、1941年の夏、彼はロバート・ジョンソンのフィールドレコーディングを計画し、クルマに録音機材を詰め込んで一路ミシシッピを目指していた。
ローマックスはロバートの居場所を探して、クラークスデイルの南方に位置する「ドッカリー農場」を訪ねた。ここは広大な敷地の綿花プランテーション兼製材所で、オーナーのドッカリー氏は、使用人である黒人たちにフェアな態度で接し、彼らの娯楽にも寛容だった。マーケットのポーチを農場で暮らすブルースマンのステージとして提供し、多くのブルースマンたちがここで演奏していた。ロバートもその中の1人だったのだ。
ローマックスは、「ドッカリーに行けばロバートの居場所がわかる」と考えたのだが、知らされたのは「毒殺された」というショッキングな事実だった。そこでフィールドレコーディングの対象としてすすめられたのが、クラークスデイル郊外にある「ストーヴォル農場」で、トラクター運転手として働いていたマッキンリー・モーガンフィールドこと、マディ・ウォーターズだったのだ。
マディは3歳の時に、生まれ故郷のローリング・フォークから祖母と一緒にクラークスデイル郊外のストーヴォル農場に移り住んだ。13歳のときにハーモニカを吹き始め、17歳で持っていた馬を売って、シアーズ製のステラ・ギターを手に入れていた。
ストーヴォル農場の近くの小屋で暮らしていたマディを訪ねたローマックスは、「米国議会図書館の記録用に、君の曲のいくつかを録音させて欲しい」と伝え、事態をまったく把握できていないマディをよそに、早速ポータブル録音
機をセットし始める。
当時のマディは、ストーヴァル周辺では凄腕ブルースマンとして知られた存在であり、すでにオリジナル曲も作っていた。この時にレコーディングされたのが「アイ・ビーズ・トラブルド」だ。この曲こそ、後にローリング・ストーンズをはじめ、多くのアーティストにカバーされることになる「アイ・キャント・ビー・サティスファイド」の原型となる曲で、マディの代表曲である。
ローマックスは翌年の夏にも、マディの小屋を訪ねて国会図書館用のレコーディングを行い、計18曲のマディの演奏とインタビューを録音した。このフィールドレコーディングの様子は、ビヨンセをはじめ、映画『戦場のピアニスト』でアカデミー賞を受賞したエイドリアン・ブロディらが出演した2008年の映画、『キャデラック・レコード』の冒頭で描かれている。
2回のフィールドレコーディングを終えたマディのもとに、20ドルの小切手と2枚のテストプレスが届いた。マディはテストプレスをジュークジョイントに持っていき、ジュークボックスにセットして聴いてみる。録音された自分の歌とギターをスピーカーから流れる音で聴くのはこの時が初めての経験だった。そこには27歳になったマディのエモーショナルな演奏が記録されていた。想像以上にパワフルな自分の声とギターに自ら驚き、即座にこう考えた。
「こりゃ悪くない。十分にミュージシャンとして生きていける演奏じゃないか」
この時に収音されたマディの演奏やインタビューには、1993年に『コンプリート・プランテーション・レコーディングス』としてリリースされている。
1938年にマディが書いたとされる「アイ・ビーズ・トラブルド」の歌詞を見る限り、もう農場での仕事には相当な不満が溜まっていた様子だ。そもそもマディは、農場生活におさまるようなスケールの人間ではなかった。彼は意を決し、1943年にメンフィスを素通りしてシカゴへと向かい、シカゴ・ブルース黄金時代を築く立役者となるのだ。
マディから影響を受けたミュージシャンは枚挙にいとまがなく、多くのロックスターからリスペクトされた。そして1983年に70歳で亡くなるまで、生涯をトップ・ブルースマンをして現役を貫いた。
ブルース・ボーイがB.B.キングに生まれ変わる時。
マディ・ウォーターズがシカゴに旅立って3年後、のちに「キング・オブ・ブルース」として頂点に立つことになるブルース・ボーイが、ギターを背中に担ぎ、たった2ドルをポケットに入れて、ハイウェイ49号線をヒッチハイクでメンフィスに向かった。
彼の名はライリー・B・キング。1925年9月16日にミシシッピ州インディアノーラの西方イッタ・ベーナという村のプランテーションで生まれている。オハイオ州シンシナティで筆者が2008年にB.B.キングにインタビューをした時の会話をもとに、物語を進めよう。
「4歳のときに母が他の男のところに行ってしまったので、1943年にインディアノーラへ移るまでは、キルマイケルという村にいる祖母のもとで育った。母親に連れられて通った教会で聴くゴスペルが好きになってね。母の従兄弟が家にやって来るとき、ロニー・ジョンソンやブラインド・レモン・ジェファーソンのレコードをよく持ってきていたので、6歳の頃にはブルースを聴くようになっていたね」
インディアノーラの街へ移ってきたB.B.は、郊外のプランテーションでトラクター運転手として働くことになり、この頃からゴスペルのグループに加わり、週末にはデルタ地方の教会やグリーンウッドのラジオ局で歌とギターを披露するようになる。
グループの仕事以外にも、インディアノーラの街角でゴスペルやブルースを歌ってチップを稼ぎ始め、数年後には演奏で稼ぐ収入のほうがプランテーションでのトタクター運転手の給料を凌ぐようになった。
「プランテーションでの仕事も嫌ではなかったよ。農業は素晴らしい仕事だと思っていたし、食糧を生産することに誇りを持っていた。ただね、早起きをして農場に出かけていくのはハードな毎日だった。
プランテーションの昼休みにアーカンソー州ヘレナのラジオ局から流れてくるソニー・ボーイ・ウィリアムスンの番組、『キング・ビスケット・タイム』を聴くのが楽しみでね。自分でもこういった仕事がしたいって考えたよ」
この頃になるとプランテーションから受け取る週給は演奏のために出かける周辺の街への旅費や宿泊費に消えるようになったが演奏で稼ぐ収入はその2倍、3倍と増えていった。この時代のインディアノーラはチトリン・サーキットの要所で、週末には大いに賑わうようになり、街角で歌うとかなり稼げたという。そして1946年にB.B.キングは、ヒッチハイクでメンフィスへと向かった。B.B.キング、20歳での旅立ちである。
「ソニー・ボーイ・ウィリアムスンの番組を思い出して、アーカンソー州ヘレナの彼が出演しているラジオ局を訪ねたよ。以前インディアノーラで会ったことがあったしね。そこで演奏させてくれないかと頼み込んだら、メンフィスのラジオ曲WDIAを紹介してくれた。この局にはナット・ウィリアムスっいう黒人のDJがいて、『タン・タウン・ジャピリー』っていう黒人向けの番組をやっていたんだ」
数日後にWDIAを訪ねるとラッキーなことにロビーにナット・ウィリアムスがいて、 ”番組で歌わせて欲しい”とストレートに尋ねると、早速簡単なオーディションが用意され、WDIAが最近契約した『ペプティコン』っていう健康ドリンクのCMソングをラジオ番組で歌わせてもらえることになる。
「これがすべての始まりさ。そこで10分間の番組を担当したんだけど、これが予想以上に好評でね。キャッチーな自分のラジオネームが必要になったので、最初はビール・ストリート・ブルース・ボーイ、それがブルース・ボーイ・キングになり、さらに短くしてB.B.キングになったわけだ」
メンフィスの街角でB.B.キングの名前は次第に知れ渡るようになる。ラジオ局、ビール・ストリートのブルース・クラブ、そしてチトリン・サーキットでのツアーなど、活動範囲は徐々に広がっていった。そして1949年、後にエルヴィス・プレスリーを世に送り出す「サン・レコード」のサム・フィリップスの手によって最初のシングル「ミス・マーサ・キング」のレコーディングが行われた。
「ミュージシャン兼スカウトマンとして働いていたアイク・ターナーという男がいて、彼はアイク&ティナ・ターナーという夫婦デュオで世界的な成功を手に入れるんだけど、私は彼にスカウトされたんだよ。周りのブルースメンはシカゴに行く奴も多かったけど、私はアイクの紹介でロサンジェルスのRPMというレコード会社と契約した。
その後、1951年にメンフィスのYMCAの部屋で、小さなポータブルテープレコーダーでローウェル・フルスンの『3 オクロック・ブルース』をレコーディングしたら、これがビルボードのR&Bヒットチャートで1位になってね」
その後も「ユー・ノウ・アイ・ラブ・ユー」「エブリデイ・アイ・ハブ・ザ・ブルース」「スウィート・リトル・エンジェル」などのヒットが続き、ツアーの規模はさらに大きくなっていった。そしてこれらの曲は、B.B.キングが生涯演奏し続けるマスターピースとなるのである。
「自分で言うのもなんだが、よく働いたよ。『3 オクロック・ブルース』がヒットした後は、少なくとも年に250回のステージをやっていたからね。1956年には1年に342回のステージをこなしている。今はもう80歳を超えたから、年間に100回程度に減らしているけど、自分が好きで楽しめることを仕事にしているから続けられるのさ。もちろん、ギャラを受け取ってゆっくりと札束を数えるのも楽しいからね(笑)」
時代は変わってしまった、とB.B.は語る。のどかだったがみんなが貧しかった時代。誰もが未来は必ず良くなると夢見ていた時代。夢が実現して金とモノがあふれかえるようになった時代。そしてバブルが吹っ飛んだ時代。
「すべてが自然の成り行きだったような気がするよ」
2015年5月14日、B.B.キングは89歳で逝去した。葬儀はテネシー州メンフィスで行われ、遺体を納めた霊柩車とともに、葬列は「聖者の行進」を演奏するマーチングバンドとともにメンフィスのビール・ストリートを進んだ。その後、ハイウェイ61を通ってミシシッピ州インディアノーラに運ばれ『B.B.キング・ミュージアム』に愛用したギター「ルシール」とともに埋葬された。
(出典/「Lightning2023年5月号 Vol.349」)
Text & Photos/H.Kuwata 桑田英彦 取材協力/ ミシシッピリバーカントリー mrcusa.jp