80年代のさまざまな要素が、僕らをジャッキーに熱中させた
昭和50年男にとって、憧れのジャッキー・チェン。そんな憧れがあふれて、本当にアクションを仕事にした男が日本にいる。高校卒業時に香港旅行へ行ってジャッキーの『奇蹟/ミラクル』の撮影現場を訪れ「アクションを見てほしい」と言った男。その後〝和製ドラゴン〞倉田保昭率いる倉田アクションクラブに入って、大学卒業と同時に言葉もわからぬまま香港へ渡り、スタントマンを振り出しに〝最後の本格派〞と呼ばれたアクションスター、ドニー・イェンに見込まれて数々の作品に携わった男。ついには『新宿インシデント』(09年)でスタントコーディネーターとしてジャッキー作品に関わり、その後も映画『るろうに剣心』シリーズ、『G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ』(2021年)などでアクション監督、『燃えよデブゴン TOKYOMISSION』(20年)などで監督を務め、世界を股にかけるようになった男。それが谷垣健治である。
真似をしたくなるキャッチーなポーズ
谷垣は昭和50年男の5つ年長となる昭和45年生まれ。小学時代を東京で過ごした彼がジャッキー映画と出会ったのは、茶の間のブラウン管だった。
「『スネーキーモンキー蛇拳』をフジテレビの『ゴールデン洋画劇場』で観て、それで〝すげぇ〞となったわけです」
『マジンガーZ』の主人公・兜 甲児でお馴染み石丸博也の声の影響もあって、ジャッキーはすんなり少年たちの心をわしづかみにした。
「僕だけじゃなく、週明けにはクラス中の男子が『蛇拳』のポーズを真似してね。放課後には近くの中原児童センターという器械運動ができる施設に行って、バック転、バック宙を練習するようになっていったんです」
そう、みんなジャッキーの気分になって真似をした。谷垣はこれこそが人気の秘訣だと言う。
「努力してできないことができるようになって、ついには敵を倒す。というストーリーはもちろんのこと、ジャッキーがとる拳法のポーズは子供が真似したくなるようなキャッチーさをもっていたことは大きかったと思います」
谷垣がジャッキーにハマっていった理由には〝時代性〞もあったという。
「フィジカルな興味という意味では、ジャッキーを観た頃に、ちょうど初代タイガーマスクが新日本プロレスで活躍していた。その影響も大きかったですね」
81年4月20日から放送された梶原一騎原作のテレビアニメ『タイガーマスク二世』に合わせて、佐山 聡がタイガーマスクとして新日本プロレスのリングに上がったのはその2日後のこと。実況の保坂正紀に〝四次元殺法〞と評されためくるめく動きで相手を翻弄した。
「ダイナマイト・キッドに勝ってWWFジュニアヘビーのベルトを取ったのが82年の正月ですよね。それに梶原(一騎)さんが『プロレススーパースター列伝』でバックストーリーを書いていて、その分人気を底上げしていたこともあって…って、こんなことがすんなり出てくるくらい、夢中だったんです(笑)」
『蛇拳』が『ゴールデン洋画劇場』で放送されたのは82年4月10日のことだから、ほぼ同時進行だったことになる。
「あと秋からは少林寺ブームがありましたよね。リー・リンチェイの『少林寺』が82年(11月)公開ですから(笑)」
ジェット・リーことリー・リンチェイは当時19歳、いきなり主演で映画デビューした。中国全国武術大会で5年連続チャンピオンになった武術家の映画として公開され、話題を呼んだ。
「松田隆智さんの中国拳法の本にも手を伸ばして、蟷螂拳(とうろうけん)を試したりしていましたね。ジャッキーの映画に夢中になったのは、単にジャッキーだけではなく、周りのいろんなムーブメントが絡み合って、影響を与えたんだと思います」
ビデオと年1回の新作家でも外でもジャッキー
ジャッキーカルチャーを支えたのはそれだけではない。
「それと、ビデオの普及が大きかったと思います。ちょうど僕の家もベータマックスを買った頃だったんですよ。ビデオ時代になって、録画をして繰り返し観ることができるようになったから、テレビの洋画劇場でジャッキー映画を録画して、『蛇拳』や『ドランクモンキー酔拳』をことあるごとにリピートする生活でしたもん(笑)」
すでに日本の劇場では『酔拳』が79年7月21日に公開され、併映の『トラック野郎・熱風5000キロ』の効果もあってヒット。ここから実際には過去の作品となる『拳シリーズ』(『蛇拳』『クレージーモンキー笑拳』『拳精』)が立て続けに公開され、ジャッキー人気は確固たるものになっていた。
「東映洋画配給だったので近くの劇場、五反田東映まで『蛇鶴八拳』(日本公開83年2月)を観に行ったのが最初。真田広之さん主演の『龍の忍者』と併映でした」
この頃、真田が所属していたのは千葉真一が主宰していたJAC(ジャパンアクションクラブ)。70年代後半に志穂美悦子が登場、80年代には真田広之、さらに黒崎 輝、高木淳也といった役者がスターダムへと登っていき、こちらも大人気の集団だった。
「『カンニング・モンキー天中拳』の併映が『伊賀野カバ丸』で、子供心には『カバ丸』の方がおもしろかったですね。翌年は『五福星』の併映が『コータローまかりとおる!』だったけど、ここで『五福星』が勝ちました(笑)」
この頃、東映が配給権をもっていた過去の主演作がさかのぼって上映されていた。ちょうどジャッキーの新作主演映画がない時期でもあった。そして翌年(2月)に東宝東和配給で『プロジェクトA』がやってきた。この頃から、年1回のペースでジャッキーの新作が観られるようになっていた。ただ、1年に1本だともう待ちきれない。
「それをつないでくれたのが、雑誌や本ですよね。たとえば、映画雑誌の『ロードショー』(集英社)が新作映画の度に『まるまる1冊ジャッキー・チェン』というグラビア誌を出していて、そこでジャッキーの自宅が公開されるんですが、後に『ポリス・ストーリー』でブリジット・リンの自宅の設定で出てくるんですよ。あ! これ雑誌で見たジャッキーの家を使ってる! って答え合わせしてました(笑)。あとはブロマイドやグッズ、レコード…いろいろ買いましたね」
この頃ジャッキーは、日本でアイドル的人気を誇り、84年には、サモ・ハン、ユン・ピョウと共に日本武道館でコンサートを開催、超満員を記録した。
「あのコンサートも行っていました! 87年に国立競技場でやったサッカーのイベント、ドリームカップ(番組名『激突!さんまvsジャッキー・チェンサッカー夢の対決』)も、同じ年に琵琶湖でやった『アジアポップス’87』も観に行きました。琵琶湖ではステージ裏で西城秀樹さんと話しているところを見かけて、握手してもらって(笑)」
主題歌、NG集…日本独自の人気要素
こうしたジャッキー熱をさらに盛り上げたのが、85年の新作ラッシュだ。前年12月公開の正月映画『スパルタンX』、6月には2度目のハリウッド進出作『プロテクター』をはじめ、年間5本の映画が日本公開された。
「8月に『大福星』『嵩山少林寺』の二本立てを観に行って、渋谷松竹で9月に『ファースト・ミッション』、これは早見優の『キッズ』が同時上映でしたよね。それで暮れには『ポリス・ストーリー/香港国際警察』…」
ちなみにこの頃のジャッキーは、夜に『ポリス・ストーリー』、朝は『ファースト・ミッション』、昼は『七福星』(日本公開87年)の3作を同時進行していたという。
「『ファースト・ミッション』でバイクと黄色いクルマのチェイスシーンは、『ポリスストーリー』用に撮ったアクションを流用してます。『ファースト・ミッション』は撮影数日後に監督のサモ・ハンが撮影をストップ、2週間かけてストーリーも配役も完全に一新して撮ったという話があるので、だいぶ混乱していたと思いますね」
そんななかでも、『スパルタンX』は『ゴーストバスターズ』『グレムリン』『ランボー/怒りの脱出』など人気作の多かった85年の洋画において、配給収入のベストテン入りを果たしている。
「ジャッキーの映画って、日本の観客に受け入れられるように独自の手を使っているんですよね」
ジャッキー映画といえばエンドロールのNG集が思い浮かぶが、これは「キャノンボール」シリーズが始めたもので、ジャッキーが自分の監督作では『ドラゴンロード』から取り入れたものだ。
「サモ・ハンの監督作、『スパルタンX』や『五福星』もNG集をつけてリバイバルされていましたけど、もともとオリジナル版にはない。後に聞いたんですけど、当時のジャッキーの映画って、どうも香港で編集する前に東宝東和へ送って編集してもらっていたらしいんです。『ファースト・ミッション』や『プロテクター』は日本公開が早かったので、日本へ先にフィルムを送って、とりあえず編集してたのかもしれませんね。だから『ポリス・ストーリー』も日本版は香港版とだいぶ違っているんですね。僕は日本版の編集はとてもすぐれていると思いましたが」
2018年に4Kマスターで発売された『ポリス・ストーリー』のブルーレイで、双方の違いを確認することができる。
「さらに主題歌も含めた音楽も日本独自のもので、オリジナル版と全く印象が違うんですよ。キース・モリソンこと木森敏之さんの音楽の偉大さを感じましたし、その国の観客に即した作品作りって大事なんだな、と感じました」
相手のどんな技でも受けられるすごさ
その後、映画の世界に飛び込んだ谷垣にとって、ジャッキー・アクションのすごさとはなんなのだろう。
「まず、相手の技を受けるのがうまい、どんな技でも受けられるということですね」
映画のアクションは格闘技ではない。それぞれの技を速く、強く〝見せる〞演技だ。
「ジャッキーはその意味で抜群のうまさがあるんですよ」
谷垣はその例として、『スパルタンX』のベニー・ユキーデとのラストバトルを挙げる。ユキーデはマーシャルアーツ全米チャンピオンの経歴をもつ格闘家だ。
「あの闘いがなぜ名対決なのかというと、ジャッキーがうまく技を受けることで、ユキーデの本来のよさを引き出してあげからだと思います」
本作の監督はサモ・ハンだが、このシーンに関してはジャッキーが先導したとされる。
「ユキーデはキックボクシングのプロだから、見せる技ではなくて、倒すための技。だからパンチやキックもコンパクトに強い技を出す。普通なら、ユキーデに映画撮影用に大げさなスイングを要求して、相手に合わせさせると思うんです。だけど、ジャッキーにはそれを受け止められる能力があるから、相手が格闘技を繰り出しても、映画のアクションとして成立させられるんですよ。ちゃんと最後には勝つ展開にもっていけるんですから(笑)」
観ている側はジャッキーのアクロバティックな体技に目がいきがちだが、そんな立ち回りも含めた表現力にこそ、アクション俳優・ジャッキーのすごさがあると谷垣は言う。
「相手の技がくる時に、一瞬ハッとしたような表情をして、〝くるぞ!〞ということを見せる。そのうえで、ギリギリのタイミングでよけたり、受け止めたりする。反射神経の鬼ですよね」
こうした一瞬の演技で、観る側はハラハラし、ジャッキーの一挙手一投足に没入していく。
「格闘技のアタマでは作れない動きなんですよね。雑技のような技も入れながら、映画的に自然な動きに近いアクションを作って見せていく、まさにショーマンシップの塊ですよ」
カンフー映画の改革者かクラシックの踏襲者か
ジャッキーは京劇から出て映画界に入り、70年代にブルース・リーの登場で世界的な知名度を得た中国武術を取り入れ、カンフー映画で人気を得た俳優だ。『拳』シリーズを経て80年に作られた『ヤング・マスター/師弟出馬』は、ジャッキーによるカンフー映画の集大成的な作品だ。
「映画としてはいびつな出来なんですけど、アクションを追うという意味では、獅子舞合戦、扇子やイス、スカートを使ったカンフーなど、京劇も含めた香港映画の名人芸をすべて詰め込んで、ストリートファイト的な1対1のラストバトルへなだれ込む。このアクションは香港映画に画面を縦横無尽に使った、立体的なアクションをもち込んでいます。この一本で映画の歴史を観るような感覚になりますよね」
ちなみに『ヤング・マスター』ラストに登場する最大の敵役ウォン・インシクは韓国ハプキドー(合気道)の師範。『ドラゴンへの道』の日本人空手家役でリーと対決している。
「『ヤング・マスター』のラストは撮影に40日かけたと言われているんですよね。香港のスタントマンのなかでは〝リーは彼を殺した、ジャッキーは彼を生かしてから殺した〞と言われているんです。それくらい、ジャッキーは相手のよさを引き出すのがうまかったということですね」
ジャッキーはリーが作った香港アクション映画の歴史を変えたスターであるように見える。
「うーん…僕はどちらかというと、むしろジャッキー映画の方がクラシックで、トラディショナル(伝統的)な作り方だと考えますね。ブルース・リーの方が、映画の歴史として見たら変革者だと思いますよ」
確かに、ジャッキーは無声映画時代のハリウッド三大喜劇王ハロルド・ロイド、バスター・キートン、チャールズ・チャップリンを敬愛していることで知られる。映画のなかでも、『プロジェクトA』の時計塔ぶら下がりはロイドの『要心無用』、『プロジェクトA2』で落ちてくる壁をすり抜けるシーンは『キートンの蒸気船』…などなど、オマージュを感じる数々のアクションが見て取れる。
「ハリウッド進出第1弾『バトルクリーク・ブロー』のオープニングなんかは、ミュージカルスターのジーン・ケリーを彷彿させるアクションですし。『ドラゴンロード』でも、評論家がアクションスターの元祖と言われるダグラス・フェアバンクスに言及して、〝ジャッキーはハリウッドクラシックを研究しているかもしれない〞って書いていましたね。実際、アメリカへ行ってから、いろんなものを研究しだしたことで変わった部分はあると思います」
現代アクションの決定版『ポリス・ストーリー』
ところで、ジャッキーが最も好きな自分の映画は、85年に公開された『ポリス・ストーリー』だと語っている。
「突き蹴りやスタントにこだわるサモ・ハンとは別の志向へジャッキーが向かっていった時期に自分で監督して、ある程度エネルギッシュでパワフルな映画作りをやりきったという気持ちはあったんじゃないかと思います」
そして谷垣は『ポリス・ストーリー』にジャッキーの大きな変化が見て取れるという。
「まず、このあたりからジャッキーの監督作に、強力なラスボスが現れないんですよね。『ポリス・ストーリー』も一味のボスはいたけれど、ものすごい技をもって倒すわけではない。暴力路線を避けていったように見えるんです。ジャッキーが香港映画『悪漢探偵』に出ていた女優のシルヴィア・チャンに言われたらしいんですよ。『あなたの映画はおもしろいけど、暴力的すぎて子供に観せられないわ』って。それがきっかけになったわけじゃないでしょうけど、自分でイニシアチブをとる時は、それこそバスター・キートンのように、老若男女誰もが観られる映画作りを志向しだしたんじゃないかと」
実際、クライマックスのショッピングモールをはじめ、モノは壊れるが、残虐な暴力シーンは現れない。
「アクションの立ち回りのすごさを見せるよりは、クルマや飛行機にぶら下がったりする、映画としての仕掛けの大きさとかを見せる志向ですよね。今これにいちばん影響を受けているのはトム・クルーズじゃないですか?『デイ&ナイツ』なんてジャッキーの演技そっくりだったし、『ミッション:インポッシブル』シリーズなんか、まさにジャッキーに挑戦している映画ですよ(笑)」
ジャッキーはカンフー映画のスターから、誰もが楽しめるアクション映画のスターになった。その転換が、この1985年だったということになる。
「『ドラゴンロード』で立体的なアクションにトライして、サモ・ハン監督の『五福星』や自身の『プロジェクトA』といった映画を経て、『ポリス・ストーリー』で現代アクションの決定版を作った。僕らはまだそのフォーマットのなかで仕事をしているという感覚すらあります」
そんな谷垣にとって、いや我々昭和50年男にとっても『ポリス・ストーリー』はエバーグリーンな作品だ。
「『ポリス・ストーリー』って今観ても、あまり古さを感じないんですよね。それはアナログで勝負しているからだと思う。例に出すのは申し訳ないけど、『マトリックス』とか当時最先端のCGを使ったということで話題になりましたが、技術が古くなったら、とたんに映画自体がどこか古びたものに感じてしまうことってあるでしょう?けれど、アナログを突き詰めたジャッキーの作品は、時代に流されないんですよ。それどころか時が経つほどそのすごみがわかります」
あれから38年、ジャッキーが確固たるトラディショナルになったゆえんである。
(出典/「昭和50年男 2023年9月号 Vol.024」)
取材・文:一角二朗 撮影:松陰浩之
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