CD時代のピークだった『ビートルズ1』
竹部:大村さんの社会人としてのキャリアのスタートは星光堂なんですよね。CDの卸会社の。そのきっかけはやっぱりビートルズなんでしょうか。
大村:そうですね。音楽関係の仕事に就きたいと思って、就職活動のときにレコード会社の入社試験をいくつか受けたんです。東芝も受けたかな。受けたか、応募だけだったか、記憶が定かではないんですけど、とにかくレコード会社をいくつか受けたけど入れなかったんです。それで星光堂に入ったわけですけど、なぜ星光堂を知っていたかというと、 学生時代にレコードを集めていたからなんですね。足利に『ヴィンテージレコード』というレコード屋があって、今もあるんですけど、そこの通販オークションでビートルズのレコードをよく買っていて、オークションリストの中に『星光堂』という名前が書かれていたんです。
竹部:やっぱりビートルズ。
大村:そうなんです。僕の地元の柏にも星光堂の営業所があって、昔からなんだろうと思ってはいたんです。当時は新星堂とは違うというくらいの認識。そのあとに、レコードやCDの卸会社だっていうことがわかった。
竹部:音楽ソフト卸の最大手ですよね。僕もオリコンにいたので存じ上げていました。確かに新星堂と間違えやすいですが(笑)。
大村:それでその会社を受けてみようと思ったんです。なにかしらでビートルズに関われる仕事ができたらいいなっていうのはありました。
竹部:そこに入られてビートルズに関係するというか、恩恵を受けることはあったんですか。
大村:最初の年に配属されたのは横浜の営業所で、そこから管轄エリアのお店へCDが出荷されていくんですが、その年に出たのが『ポール・イズ・ライブ』だったんです。店頭に飾る販促用の大きなポップやポスターの余りをもらったときは嬉しかったですね。
竹部:店頭用の販促グッズも卸を経由してお店に行くんですね。
大村:そうですね。商品と一緒に販促物も入ってきて、取引額やお店のジャンル特性などに応じて、営業の人が振り分けていました。
竹部:最新リリース情報も星光堂には早い段階で来るわけですよね。音源もそうですが。
大村:そこはいいところですね。早い段階で音源がカセットで聞けるし、リリース前にサンプル盤やプロモ盤も届きますからね。最初(94年)の『BBC』や、『アンソロジー』は盛り上がりました。
竹部:その時代ですね。当時、ビートルズのCDが売れていたという実感はありましたか。
大村:売れてはいましたよ。でもCDそのものが売れていた時代なので、エイベックスやビーイング系のJ-POPがすごく強かった。自分はビートルズが好きだから、他の人も同じようにビートルズを聴いているのかと思ったけど、全然そんなことはなくて。『BBC』と『アンソロジー』は僕の中では盛り上がっていましたけど、業界全体で見ればそれほどではなかったかもしれない。実際にCDを取り扱って出荷数を見てみると、洋楽自体のパイが小さいんですよ。
竹部:よくわかります。自分もあの時代のCDの売り上げを近いところで見ていたので。
大村:そういう意味では『ビートルズ1』の時のほうがすごかったかもしれないです。メーカーさんもかなり力を入れていて、いろんなノベルティを作っていましたから。
竹部:確かに『1』は大騒ぎでした。リリース日近辺に渋谷でビートルズジャックっていうキャンペーンをやっていました。『1』でビートルズを知ったっていう人は多いですよね。
大村:やっぱりそうですか。
竹部:選曲的には普通のベストですけどね。
大村:確かにそうなんですけど、時系列にヒット曲を1枚で聴けるベストと言うことでいえば、あの時代に必要なCDだったんでしょうね。
竹部:ではCD時代のビートルズの思い出となると『1』ですか。
大村:でも、『1』の頃は情報システムという部署だったんですよ。だから、直接商品に関わることはなくて、営業や商品の部署の盛り上がりを傍から見ている感じでした。仲のいい営業の人やマーケティング部の人たちから情報をもらったりはしていましたけど。
竹部:そうだったんですね。その後もビートルズのCDはいろいろ出ていますが、ピークは『1』だったんでしょうね。それにしてもまさかCDというメディアがこんなことになるとは当時は思いもしなかったですね。
大村:本当に。跡形もないといっていいくらい。
ブートを買っていた高田馬場の「ゲット・バック」
竹部:まさにその言葉がぴったりきます。みんなCD聞かなくなってしまったんですよね。でもまたCD再評価の時代が来ると期待したいですが。そのビートルズのCDが最初に出たのは87年だったんですが、大村さんはすぐに買いましたか。
大村:すぐには買わなかったと思います。ひょっとしたら87年はまだプレーヤーを持ってなかったかもしれない。
竹部:同じく。僕もそのときは持っていませんでした。CDというメディアやハードに抵抗があって。でもビートルズのCDは気になるので、友達の家まで行って『プリーズ・プリーズ・ミー』のCDを聞かせてもらって、CDをプレーヤーに入れたときに衝撃を受けたんですよ。トータルタイムが二十何分と表示されて、そんなに短いんだって。レコードで聴いていると、二十何分には感じさせない濃度があるじゃないですか。なんといいますか、現実を見させられた感じで、それ以降ビートルズのCDが聴けなかったんですよ。初期がモノラルというのも違和感あったり、まぁ、値段が高かったことも大きいんですが。
大村;そうでした。CP32規格だから3200円だったと思います。
竹部:アルバムが全部入ったCDボックスも高かった。
大村:CD1枚の値段×枚数くらいの値段でしたよ。
竹部:さすがに買えなかったです。でもブートのCDは買っていたという。
大村:僕もブートは買っていました。CDは『ウルトラ・レア・トラックス』からですね。90年代以降はリリースの数が増えていって、『アンサーパスト・マスターズ』あたりまでは何とかついて行けたんですが、『デイ・バイ・デイ』などのゲット・バック・セッションものが大量に流出し始めた頃に脱落しました(笑)。アナログ時代は松本常男さんの『海賊盤事典』で紹介していたものを集めれば、一応音源は揃うみたいなところはありましたよね。
竹部:そうでしたね。ブートはどこで買っていたんですか。
大村:メインは高田馬場にあった時の『ゲット・バック』ですね。あとは新宿西口の『キニー』とか。
竹部:出ました(笑)。高田馬場の『ゲット・バック』。
大村:西武線の線路沿いにあって、山手線からもお店が見えたんです。会員になると1割引きで買えて、会報も送られてきて。ブートLPだけでなく、正規のビデオやブートビデオも売っていたから、よく使っていました。当時、行っていた人は覚えていると思うんですけど、ブートビデオは黒いカートンケースに入っていて、タイトルをスタンプしたシールが背に貼ってあったんです。で、インデックスカードを入れる窓のところに生写真が1枚はさまっているという。
竹部:ブートというよりも裏ビデオって感じですね(笑)。
大村:映画も全部あったんですよ。でもフィルム落としだから汚い。色落ちしていたり、フィルム飛びしたり、音も当然モノラルです。逆に言うとリマスターされていない本当のフィルムの音なんで、それはそれで貴重ですが。ビデオは確か1本1万9800円くらいでしたが、僕は『ハード・デイズ・ナイト』を買ったんです。字幕はなかったですけど。
竹部:当時ビデオは高かったですよね。よく雑誌に広告が出ていたけど、とても買える値段ではなかった。けど『ハード・デイズ・ナイト』に19800円出した気持ちはわかります。
大村:僕が買ったのは『ハード・デイズ・ナイト』だけですけど、当時買った人の話を聞くと、『イエロー・サブマリン』は日本語字幕入りだったらしいです。手書きの。それは貴重ですよね。探しているんですが出てこない。ちょっと見てみたいですよね。
竹部:それは見てみたい。
大村:『ゲット・バック』では、販売しているビデオとは別のタイトルのレンタルもしていました。世の中ではレンタルビデオが流行っていたので、そのノリだったんでしょうかね。あと、神保町の三省堂書店にはビデオの有料視聴コーナーみたいのがあって、『グレイテスト・ストーリー』とかが見られましたよ。
竹部:映画『グレイテスト・ストーリー』は当時のファンにとって触れなきゃならない作品ですよね。当時、テレビでも放送していましたし。汚い画質でしたが。その頃で言えば『コンプリート・ビートルズ』というドキュメントもありましたよね。
大村:ありました。あれは輸入版が出ていたんですよね、普通に石丸電気とかで売っていました。
竹部:84年の大晦日にNHKで放送したバージョンの日本語吹き替え版がよかったんです。
大村:そうでした。そういえば、神保町にあった中古レコード屋がその頃ビデオのダビングサービスをやっていて、そこもよく使っていました。
竹部:ジャニスではない?
大村:違います。なんという名前だったかな……。普通の中古レコード屋さんだったんですけど、レジの裏にビデオデッキが2台おいてあって、ダビングしてくれるんです。30分500円だったか1000円だったか。ほかの店でビデオを借りて、神保町に行ってダビングしてもらって、その日のうちに返して、ダビングしたテープは家に持って帰ってということをやっていました。
竹部:そんなサービスがあったとは知りませんでした。
大村:『ゲット・バック』のレンタルは2泊3日で3000円か3500円じゃなかったかな。それで日本公演の6月30と7月1日を借りて見ましたね。それをダビングして何度も見返していました。
大学時代に体験したリンゴ、ポール、ジョージの来日公演
竹部:そういう話おもしろいですね。話を戻しますと、大村さんは星光堂でシステムの仕事をしながらビートルズ活動をして、研究に勤しんでいたということなのでしょうか。
大村:その前に僕は学生時代、『早稲田ビートルマニア』というサークルに入っていて、こういう研究本を作ったりしてたんですよ(といって『SUPER BEATLE』というミニコミ誌を見せる)。
竹部:これは見たことがない。しっかり作られているんですね。
大村:そもそも、僕が早稲田に入りたかったのもビートルマニアという存在を知っていたからなんです。でも、入学して実際に入ってみると想像していたものと少し違っていて。そこは研究を主体としたサークルではなくて、バンド活動がメインのサークルだったんです。ですので、自分もちょっとは演奏をやったりして、それはそれで新しい世界を発見できて楽しかったのですけど、研究もしたかったんですね。この『SUPER BEATLE』という冊子は、僕たちの先輩が85年に第1号を出して、その後、毎年学祭の時に出してたんです。90年と91年の2冊は、僕が2年生と3年生の時に編集長を担当したものです。
竹部:大村さんの原点。それにしても濃い内容ですね。ちょっとページをめくってもそれがわかりますし、さすが大村さんという丁寧な仕事ぶりがうかがえます。この頃ってネットがないから研究成果を発表するには紙しかないし、多くの人に見てもらうにはこういうミニコミ誌しかないんですよね。これはワープロ打ちの紙を版下に貼って印刷していますよね。僕も手書きでミニコミ誌を作っていましたからその苦労はよくわかります。
大村:そうですよね。当時はまだワープロを持っている人もあまりいなくて、みんなで手分けして打ち込んでいたから、ページによってフォントや行間が違うんですよ。
竹部:本当だ。でもページに込められた熱量がすごいですよね。
大村:僕の大学生時代は、ちょうどリンゴ、ポール、ジョージと続けて日本に来たんですよね。そのライブレポートや追っかけ日記が載っていたりして、今読んでも濃い内容だと思います。
竹部:それは興味深い。やはり90年のポール来日は大きな出来事でしたし、今振り返っても、89年のリンゴから90年のポール、91年のジョージの来日って特別な時期でした。大村さんはポールの初来日はどういう感じで捉えていましたか。
大村:なんだろう……言葉ではうまく言えないですよね。今まで写真やビデオでしか見られなかった人がそこにいる。それはもう、とんでもないことでした。
竹部:チケットはどうやって?
大村:最初の来日は6回中3回行ったんですよ。5日と11日と最終日の13日。今思えばもっと行けばよかったんですが。5日は大学のクラスの友人のお父さんがフジテレビにいたので、その人を通じて。席はスタンドでしたけど。11日はサークルの先輩が取った整理券のチケットで行きました。東京ドームで配布していた整理券で、アリーナのA12。で、最終日は当日券で見ました。見切れ席でほとんど見えなかったですが。竹部さんはいかがでしたか?
竹部:90年のポール来日は、それまでの人生をかけて挑みましたので公演は全部、そのほかに成田空港の出迎えと見送り、記者会見のMZA有明、ホテルオークラの出待ち全部やりまして。MZA有明は当然会場には入れず。ただ行っただけでしたけど。
大村:それはすごい。
竹部:あのパワーと熱意は信じられないほどです。とにかく気合が入っていました。
大村:実は僕、初日前日(3月2日)にドームに行ったんですよ。そうしたら入場口から少しだけ中が見えて、ステージでバンドがリハーサルしていることがわかったんです。
竹部:その話は聞いたことないです。行けばよかった。
大村:最初はキーボードの音出しを確認しているだけで、照明も暗かったんですが、いきなり電気がついて、「フィギュア・オブ・エイト」が始まったんです。全部で1時間半くらいやってました。「ラブ・ミー・ドゥ」をやってるのも聞こえてびっくりしたんですが、あれは「P.S. ラブ・ミー・ドゥ」だったのねと、数日後にわかりました(笑)。
竹部:「P.S. ラブ・ミー・ドゥ」やってましたね。そもそもなんでドームに行こうと思ったんですか。
大村:なんでしょうね。前日だからなにかやっているんじゃないかって期待があったのかもしれないです。本当に偶然ですよ。
竹部:そのいてもたってもいられない気持ちよくわかります。僕も、出迎えも記者会見も場所しかわからないのに行ってしまいましたから。今思い返しても、最初の成田空港はすごかった。ほとんどパニックでした。
大村:成田空港の到着はニュースで見ました。
竹部:成田の到着口に着いたらファンがたくさんいて。あれは事前にシネクラブが出迎えのファンを募っていたんですよね。
大村:そうらしいですね。ハガキが送られてたとか。
竹部:シネクラブの人が「そんなに騒いでいるとポールは出てきません」とか言ってその場をなだめようとしているんだけど、場内騒然って感じで。ちょうどヤクルトの選手がユマキャンプから帰ってきた日らしくて、ヤクルトの選手がたくさんいた。もう空港全体がパニックでしたよ。こっちの立場で言えば、「あんたたちが呼んだんでしょ」みたいな(笑)。案の定、ポールが出てきたらすごいことになって、最初はいい位置にいたんですが、後ろから押されてもみくちゃにされました。それもいい思い出です。
大村:ホテルオークラも行ったんですか。
竹部:毎日行きました。オークラ別館の横にVIPの車の発着場があって、ドームに向かってリムジンに乗る際、ポールがファンに手を振ってくれるんですよ。それを目当てに通っていました。オークラは出待ちにも寛容でしたし。最初は人も少なかったんですが、最終日の13日は結構な人数になっていました。翌14日はオークラで見送るか成田で見送るかで迷ったんですが、成田に行ったんですね。そうしたらあまり人がいなくて、近くでポールとリンダに会えたんですよ。手を伸ばせば触れるくらいの距離。感動しました。
大村:すごい! 見送りの成田は人が少なかったらしいですね。
竹部:90年の来日は忘れられないですね。93年の来日も毎日オークラに行ってましたが、あまり記憶がないんです。『ポール・イズ・ライブ』のCDにポールとリンダ以外のバンドメンバーのサインはもらえましたが。その次の2002年はオークラじゃなかったんですよ。
大村:確か椿山荘(フォーシーズンズ)じゃなかったでしたっけ?
竹部:あのとき、みんなオークラだと思ってオークラに行ったらしいんですが、僕は来日の直前に友達から「今回はオークラじゃない。フォーシーズンズだ」って教えてもらって、到着した日にフォーシーズンズで待っていたら本当にポールが来たんです。フォーシーズンズは出待ち禁止らしくて、ポールを目の前にして「ウェルカムバック!ポール!」って叫んだらつまみ出されてしまいました(笑)。
大村:あらら(笑)。
竹部:夜7時か8時かな。ヘザーと2人でホテルの玄関からロビーに入って来た。まわりにファンらしき人はほぼいなかったんですよ。
大村:それはすごい。
竹部:ポール来日の追っかけ話になると盛り上がってしまいまして。すいません。
大村:いえいえ、それは当然です。僕は93年の方が燃えたんですね。サークルの先輩から明後日に整理券が配布されるっていう極秘情報が伝わってきたんです。なので、2日前から横浜の相鉄ジョイナスのプレイガイドに並んだんです。友人3人で並んだので、整理番号1番、2番、3番が取れて、席はアリーナのA8だったかな。なかなかいい場所が取れました。ちょっと左でしたけど。
竹部:それは貴重な体験。僕は93年のときは友達の整理券でチケットを取ったので思い出はなくて。でも90年は先ほども言ったように気合が入っていたので、来日の発表があるだろうって日を予測して、毎日キョードー東京の前に様子見に行っていたんですよ。そうしたら、同じような人が何人かいて、そこで知り合いになった人と連絡先を交換して、動きがあったら連絡しますねって約束をしたんです。携帯がない時代ですからね。その数日後、夕方くらいに電話がかかってきて「明日の朝刊で発表されて、整理券が配布されるから今日から並んだ方がいい」って。それですぐに表参道まで行ってキョードー東京の前に並び始めたんです。すでに30人くらいいたかな。そこから一晩徹夜ですよ。確か12月23日だったと思う。寒くて。その整理券の引き換えが1月7日だったのは覚えています。
大村:あ、ほんとだ。ここ(『SUPER BEATLE』のポールチケット獲得日記の記事)に1月7日だと書いてあります。
竹部:ですよね。正月に友達とスキーに行ったんだけど、ケガしちゃいけないと思って、ろくに滑らなかった(笑)。それで取ったチケットはA7でした。当時の東京ドームはA10がセンターだったんですよね。
大村:僕は93年のとき、手分けして取ったサークル時代の友人と調整して、最終日だけA10で観ることができたんです。そのとき、『バック・イン・ザ・U.S.S.R. 』のソ連盤LPと『サージェント』のLPを持っていったんですよ。それで、「USSR」と「サージェント」をやったときにそのレコードをステージ上のポールに見せたら、反応してくれて。
竹部:それはたまらないですね。
大村:すごくうれしかった。それぐらい近い席だったんですよね。隣にいた友人は、「ヘイ・ジュード」の時にミニチュアのサッカーボールを投げて、ゴンドラに乗ってたポールがキャッチしてくれました。最後に客席に投げ返されちゃいましたけど(笑)。
竹部:93年もいいツアーでしたよね。
大村:ポールがドラム叩いたりとか。
海外とのトレードで収集した貴重音源&映像
竹部:「マイ・ラヴ」もやったし。話を大村さんの研究に戻したいのですが。先ほどの話で、本格的に研究をし始めたのは、大学に入ってからということでしたが、それまではどういう活動だったのでしょうか。
大村:とにかくいろいろなブートを聴いていました。『ゲット・バック』が出していた会報にも投稿してましたし。
竹部:『ゲット・バック』って会報まで作っていたんですね。
大村:通常の会報とリストの他に、ブート専門の『NOT A SECOND TIME!』というのを不定期に発行してました。実家の押し入れをひっくり返すと出てくると思います。研究っていうほどではないですけど、音源の解説を自分なりにやったりとか。そういうことが好きだったんでしょうね。当時は研究成果を発表する場がほとんどないから、そういうところに投稿するしかないんですよ。そういう場がもらえて研究心が爆発したんだと思います。最初はブートを集めて聞いていて、その次がブートになってない音源や映像。ビデオは海外とのトレードで入手していました。
竹部:それは本格的ですね。
大村:アメリカの『ビートルファン』と、『ゴールドマイン』っていうコレクター向けの雑誌に個人広告を出してトレード相手を探していました。
竹部:出ました『ゴールドマイン』。
大村:そこで知り合った人とトレードをしていたんですが、その中にポールのツアーやサウンドチェックとか、やたらそういう音源と映像を持っている人がいたんです。まだ西新宿では出回っていないものがガンガン入ってくるんですよ。なかにはウイングスの76年のツアー音源のめちゃくちゃ音質のいいやつとかもあって。
竹部:最新ツアーだけではなく、ウイングスのやつも出てくるんですか。
大村:ウイングスの音源や映像は当時の自分はそこまでは詳しくなかったけど、ライブは音質の良しあし、ライブの出来不出来、MCの違いとかあったりして、いろいろ聴いていました。76年の音源は比較的多かったですけど、75年と79年はブートの種類が少なくて、特に79年ツアーはなかなか手に入らなかったですよね。でもトレードでその辺の音源も手に入ったんです。音は悪かったですが。
竹部:確かに僕の持っていたブートも音が悪かったですね。だから『ラスト・フライト』が出たときは驚きました。
大村:あれはすごい衝撃でした。要は「カミング・アップ」のライブバージョンを録音してた日ですよね。だから完全版が存在したんでしょう。デニー・レーンが流したっていう説がありますが、どうなんでしょうね。
竹部:そうなんですね。いずれにせよあれは思い出のブートですよ。それで大村さんのトレード素材はどのようなものだったんですか。
大村:僕が用意できるのは来日公演のもので、音源やニュース映像なんですけど、それだけだと限りがあるじゃないですか。でもトレード相手はビートルズ関連ではない、たとえば日本でやる来日コンサートの映像でも喜んでくれたんです。マドンナとかキッスとか、あの辺のアーティストのライブを放送時に録ったやつ。それがあればトレードに応じてくれました。あと、ポールの『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の2枚組CD。あの来日記念盤は日本だけの発売だったからやたら人気ありました。あれを出すとビデオ3本と交換できた(笑)。
竹部:普通に日本で売っていたやつですよね。
大村:そうそう。大学の生協で一割引きで買ってました。何枚買ったことか。
竹部:僕の知り合いにも大村さんと同じように海外トレードしている人がいて、西新宿に出回る前にポールの「3本足」や「ペニー・レーン」のカラーを見せてもらったことがありました。
大村:ネットがないから貴重な映像や音源を入手する方法がトレードしかないんですよ。トレードしていた中のひとりに、エレン・ボエルっていう人がいまして。いまだに名前を覚えているんですけど、彼女が持ってる映像がなんだか知らないけどやたら画質がいいんですよ。主にポールのツアーのニュース用映像なんですが、各地の「フィギュア・オブ・エイト」の全長版を持っているんです。どうやら彼女はテレビ局に近かったらしく、そこからのロー・フィルムっていうんですが、編集前の素材映像をたくさんもらいました。
竹部:そういうトレードの成果を発表していたわけですね。やっぱり出るべくところから大村さんは出ているんですね。
大村:国会図書館行って調べるというのはまだやってなかったですけどね(笑)。でも会社員になった後は、研究熱が冷めていたといいますか、それほど真剣にビートルズを聴いていなかった時期もありました。
竹部:仕事が忙しいからですか。
大村:それもそうですが、興味がブリット・ポップに行っちゃったんですよ。オアシスとかブラーとかスーパーグラスとか。
竹部:なるほど。当時は人気がありましたよね。
大村:あとはビートルズのルーツに遡って、フィル・スペクターとか、彼がプロデュースした60年代のガールズグループにも興味がありました。特にロネッツが好きで、よく聴いていましたね。
竹部:CDの時代になって、昔の音源も普通に聴けるようになって、それに加えて、リアルタイムのロックも楽しい時代だったから、そうなっても不思議ではないです。
大村:オアシス二度目の来日(95年)は、新宿のリキッド・ルームと恵比寿ガーデンホールで見ました。
竹部:それは貴重です。
大村;『モーニング・グローリー』が出る前だったんですよ。だから知らない曲もいくつかあって。ノエルのコーナーで「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」をやってたんですが、めちゃめちゃいい曲だなと思いました。
竹部:僕はその次の来日の武道館に行きました。
大村:あのときはチケット取るのが大変でしたね。
竹部:すごく苦労した記憶があります。ノエルのコーナーで「ヘルプ!」歌っていました。
大村:だから、そういうリアルタイムのロックを聴いていたので、自分の中のビートルズ熱は少し冷めていた時期でした。周りにあまりビートルズファンがいなかったということもあったかもしれないですね。大学時代の友達と話すこともありましたが、どうしてもプレーヤー寄りの人が多かったですし。
労作『「ビートルズと日本」 熱狂の記録』制作秘話
竹部:ネットもSNSもなかった時代ですからね。では、大村さんの著作『「ビートルズと日本」 熱狂の記録』(2016年)はどういうきっかけで作られたのでしょうか。
大村:よく聞かれるんですけど、 きっかけは広島の中古レコード店『ジスボーイ』のご主人の菅田(泰治)さんなんです。菅田さんが『日本盤 60年代ロックLP図鑑』(2006年/シンコーミュージック)という本を出したとき、資料として僕のレコードを提供したことがあったんです。プレスマークの調査などで協力していて。
竹部:あの本持っていますよ。素晴らしいですよね。
大村:その本ができたあとの打ち上げに呼んでいただいて、そこで版元のシンコーミュージックの編集者の荒野(政寿)さんと知り合いになって、そのあとに出た『クロスビート』のポール特集で原稿を書かせてもらったんです。それからも『クロスビート』でなんかあるたびに声をかけてくださって、原稿を書いていたんですね。少し経って、今度は2013年にポールのムック『クロスビート・スペシャル・エディション Paul McCartney』を出すということで、また原稿を依頼されたんです。その編集担当は、荒野さんではなく美馬(亜貴子)さんでした。荒野さんがご紹介くださったのだと思います。そのムックでは、僕がリアルタイムで体験した90年、 93年、2002年の来日公演記を書いたんです。それを美馬さんが気に入ってくれて、またなにか一緒に仕事をしましょうということになったときに、たまたま僕が温めていた企画のことを話したんです。それが『ビートルズと日本』シリーズの始まりでした。その元ネタというか、きっかけが何なのかというと、香月利一さんの『ビートルズ研究毒・独・髑・読本』(99年/CDジャーナル)なんです。
竹部:ビートルズ研究というと日本ではやっぱり香月さんですよね。 香月さんの『ビートルズ事典』(74年/立風書房)は金字塔ですよね。
大村:『ビートルズ研究毒・独・髑・読本』の中に、「ビートルズ3大紙記事リスト」っていうのがあったんです。要はどこどこ新聞の何年何月何日にどういう見出しのビートルズ記事が掲載されていたかのリストなんですが、それを見た時に「こんなのどうやって作ったんだ!?」と衝撃を受けまして。それでそのリストを持って図書館に行って、試し半分、興味半分で調べてみたんですよ。そうしたら、当然ですけど確かにあるんですよね。でも、香月さんのリストには、それが朝刊なのか夕刊なのか、何面に載っているのかという詳細が書かれていなかったんです。あとから気づいたんですけど、香月さんはご自分のスクラップブックをもとにリストを作られたんだと思うんです。だから「朝日新聞○年×月△日」とあっても、その日付の朝刊・夕刊すべてのページに目を通す必要があって、即座には見つけられなかった。そこで、香月さんのリストに情報を追加したバージョンアップ版を作りたいなと思ったのと、さらに決定的だったのが、リストに載っていない記事をたまたま見つけちゃったんです。
竹部:こんなのもあるぞと。
大村:そうそう。メラメラと調査心が燃えてきた。そこが僕の妙な習性というか、変わっているところかもしれない。香月さんのリストにない記事があるのなら、それも見つけて、完全なリストを作りたいと思ったんです。
竹部:それはすごい。
大村:そのときは本を出すとかはまったく意識しないで、とにかく完全版が作りたかったんです。ビートルズって、そういうことをさせる力を持ってますよね(笑)。でも、それを作るには新聞全部に目を通すしかない。で、まず試しに朝日新聞の縮刷版の64年1月からビートルズの記事を探しはじめたんですよ。最初はラジオ・テレビ欄は飛ばしてたんですが、こんなアホなことは2度とやるわけないと気付いて、後戻りしてそれもチェックすることにしました。1ヵ月どのくらい時間がかかるのかなと思ったら、2時間半か3時間ぐらいで、意外に早くいけるかもしれないなと思って、2月、3月……と、片っ端から見ていったんです。朝日新聞だけでどのぐらいかかったのかな? たしか半年くらいだったか。意外にいけるじゃんと思って、続けて読売新聞と毎日新聞に取り掛かって、そのあとにスポーツ紙にも手を広げたんです。
竹部:スポーツ紙は縮刷版あるんですか。
大村:スポーツ紙はないですね。でもマイクロフィルムになってるんです。マイクロフィルムって、紙面一枚一枚を写真に撮って縮小して、 35ミリのフィルムに焼き付けたものです。それを専用の機械にかけると見られる。国会図書館にありますよ。
竹部:知りませんでした。
大村:それで、さっきの話に戻るんですが、美馬さんとの打ち合わせのときに、その調査成果をまとめたノートを持っていったんです。「実は僕こういうことをやってるんです」って。そうしたら、美馬さんと、同席されていた大谷(英之)さんにすごく驚かれた。こいつちょっとヤバイなって思われたでしょうね(笑)。そのときはほとんど調査が終わっていた時期で、記事を転記したノートも結構な冊数になっていました。
竹部:研究成果を発表しろという神様からの声だったんでしょうね。調査は結局どのくらいかかったのでしょうか。
大村:新聞が3年~4年。そのあと週刊誌もやって。週刊誌は1年52冊だから、結構早く行けました。トータルで5年くらいですね。
竹部:具体的な作業として、土日を使うわけですか。
大村:そうです。普通のサラリーマンですからね。でも、国会図書館は日曜祝日はやっていないので、土曜日だけしか使えないんです。ではこの限られた時間でいかに最短でできるか。そうしたら、国会図書館以外のいくつかの図書館に三大紙の縮刷版が置いてあることがわかったんです。なので、土曜日は国会図書館、日曜日はそのほかの図書館というように振り分けて調査をしていったんです。で、有給休暇を取った日は迷わず国会図書館です。でも、今の僕にはたぶんこの作業はできないと思います(笑)。
竹部:体力的に?
大村:そうですね。体力的、精神的、集中力的にも。
竹部:その5年がかりで調べたデータを、今度はどういうふうに見せていくかという、本にするための執筆と編集作業が始まるわけですよね。
大村:そうですね。それに1年かかりました。
竹部:この本が良いのは読みやくわかりやすいところですよね。
大村:そこは編集チームの皆さんのおかげですね。編集の大谷さんと美馬さん、デザイナーの根本尚史さんは本当に大変だったと思います。構成が複雑じゃないですか。日付があって、見出しがあって、本文があって、図版がある。いま見返すと、「素人のくせに1冊目から何でこんな面倒なの出しちゃってるんだよ」と思います。確か当時、同じことを美馬さんに言われた気がする(笑)。
竹部:文章の流し込みも大変だし……、流し込んでみないと全体がわからないですもんね。
大村:ノドの部分に見出しがくるのはまずいから文章を増やしてくださいとか、減らしてくださいとか、調整がいろいろありました。原稿は句読点ひとつ打つのにも考えて書いたのに、そんな外的要因で文章を変えなきゃいけないのかと。僕も必死に作業しましたよ。あの本は、さらに欄外に注釈が入ってますから、複雑極まりないです。当初僕は、注釈は後ろにまとめてもいいですと言ったんですが、編集チームが絶対にそれはしたくないと、すごくこだわっていていたのをよく覚えています。
竹部:注釈が後ろだと読みづらいですよね。
大村:だから、本文と注釈を合わせる作業がこれまた大変で。編集チームの皆さんには本当にご苦労をかけました。デザイナーの根本さんは、「あのビートルズ本を作れたのだから、この先こわいものはない」と言っていたと聞きました(笑)。
竹部:総ページ数530。最初からこんな大著になると思いましたか。
大村:わかってなかったです。素人なので、とりあえず書けるだけ書いてましたから。最初はA5サイズの予定だったんです。が、流し込んだら全然収まらないってことになって、B5に変わったんですよ。その調整も大変だったそうで、これまたご迷惑をかけました。
世の中的にはほとんどどうでもいいこと
竹部:なるほど。でもそれで納得の出来になったわけですよね。
大村:そうです。今まで読んできたビートルズ本で不満というか気持ち悪かったのは、情報のソース元がはっきりしていなかったことでした。あたかも自分が経験したみたいに書かれているけれど、果たして本当にそうなのかなという違和感があったんです。『ビートルズと日本』のためにいろいろ文献を調べていると、のちに一般的になっている情報のソースがわかることが多かった。少なくとも日本の出来事については、多くが香月さんの『ビートルズ事典』を下敷きにしています。そのソースの大半は、リアルタイムの国内の新聞や週刊誌です。『ビートルズ事典』の年表や、『ビートルズ・エピソード550』(78年/立風書房)などは、香月さんが作られていたスクラップブックを元にしているはずです。『ビートルズと日本』では、その大元のソースの出典を明らかにするよう心がけたので、情報の正誤を確かめるべき対象がはっきりしたのではないかと思います。
竹部:『ビートルズ事典』のすごさをあらためて実感したと。あの時代にあれをやったっていうのは信じられないですよね。
大村:何しろパソコンがない時代ですからね。とんでもないですよ。『ビートルズ事典』は内容が古いとか言う人もいますけど、あの本のすごさはそういう次元の話ではないです。
竹部:でも香月さんが『ビートルズ事典』を作った頃は、ほかにビートルズを研究している人があまりいなかったから、自分がルールみたいなところがあったわけですよね。のちにほかから突っ込まれることは考えていなかったんじゃないですかね。
大村:なので、この本には必ず出典を記載するようにしたんです。リアルタイムの体験をしていない僕が出来ることは、「当時の新聞や雑誌にはこう書かれています。ここにこういう記事があります」というのを提示するところまで。自分の意見や考えはあまり入れてないです。発売中止になったLPの『ザ・ベスト・オブ・ザ・ビートルズ』のところだけ少し自分の考えを入れましたが、基本的には「これこれこういう記事がある」と上流のソースを提示するだけで、そこから先はみんなで考えましょうというスタンスです。
竹部:調べていくと事実誤認の訂正作業が出てきますよね。
大村:僕らもそこに苦労したわけじゃないですか。元の情報が正しくなかったがゆえにそれを刷り込まれたり、本当だと思っていたことが、実際に調べてみたら違ったり。正しいであろう情報を伝えるように心がけないといけない。ですので、孫引きされているその大元を明確にする作業は大切なことだと思います。海外の情報についてそれをやるのはしんどいですが、日本の出来事についてはまだやりやすい。
竹部:ビートルズファンは些細なことに敏感ですから。
大村:一方で、事実というか、ほぼ確実だということを強調しすぎると、それはそれで面倒なことになってしまう時があるので、そのさじ加減は難しいですね。
竹部:僕もそういうことがありますよ。事実は違うのかもしれないけど、当事者がそう思っているのなら、それがその人の事実で、それはそれでいいんじゃないかなっていう場面。でも後世に残すという意味では事実を訂正していかなきゃいけない、そういうジレンマもありますよね。
大村:当時の記事に書いてあることの記録と人間の記憶のどっちが正しいのか、信憑性が高いのかというと、提灯記事が多かった時代ではあるとはいえ、それでも記録の方を重視した方が良いように思います。人の記憶はハードディスクと違って容易に書き変わってしまいますし、体験したことのない記憶も平気でどんどん作り出しちゃいますからね。さらに言うと、記事よりも写真や映像、録音といった一次記録が最強でしょう。AIによる捏造は別ですが(笑)。
竹部:僕は間違った事実も容認するし、それを修正することを楽しみたいという気持ちもあります。「そうだったんだ」っていう感覚を持っていたいです。日本公演で言うと、昼の部と夜の部の間にホテルに帰ったのかいう問題があるじゃないですか。それまでずっと、武道館にいたってことになっていたのが『ビートルズ来日学』で訂正された。だからといってそれまで間違った説を書いていた人を非難する気にはなれない。
大村:それが正しいと思います。こういう本を作った人間が言うのはものすごい矛盾がありますが、そのくらいの温度感というかスタンスがいいと思うんです。私の中には『ビートルズと日本』の著者とは別の人間がもうひとりいて、「世の中的にはほとんどどうでもいいことなんだから、飲み会の時のネタぐらいにしておいて、真剣にバトルするほどのものでもないんじゃないのかな」という気持ちもあります。読者の方からものすごく怒られそうですが(笑)。
竹部:この本を作ってみて、日本における60年代のビートルズの印象は変わりましたか。
大村:それは変わりました。タイトルになっているように、この本のテーマは日本のビートルズなんですよ。リアルタイムの日本、特に来日前は、熱心なビートルズ・ファンって少なかったんじゃないかな、というのは改めて感じました。本のタイトルこそ『熱狂の記録』ですが、当時の日本は全然熱狂なんかしてない(笑)。
竹部:よく言われることですよね。生前の松村雄策さんもよく書かれていました。
大村:それでも来日時はすごくフィーチャーされていて、そこの期間だけは確かにすごいんです。来日が決まった4月から来る直前までがとんでもなく盛り上がっているんです。 それこそ2002年のワールドカップや韓流のヨン様人気とか、ああいう現象です。
竹部:この本でもそこのボリュームが厚いし、その後に大村さんがまとめた『「ビートルズと日本」週刊誌の記録 来日編』を読んでも明らかですよね。
大村:当時は、ビートルズの存在を知ってはいるんだけど、好きでも嫌いでもないとか、どうでもいいっていう人が大半という印象です。あえてビートルズは嫌いと宣言するアンチには、男の子が多い。女の子にキャーキャー言われているルックス先行のやつらなんか、大したことないみたいな。
竹部:今では神格化されているビートルズですが、当時はそうでもないということですよね。そう思うと当時からのファンはリスペクトしますね。とくに日本公演前からずっとファンである人。我々がどんなに好きでも、そういう人には勝てないですよね。
大村:この本にも書いたのですが、作家の岩瀬成子さんが、『オール・マイ・ラヴィング』っていう本の中で「ビートルズの矢が刺さっていない人には、どんなに説明してもわからないこと」と書かれていて、すごく的確な表現だなと思って。
竹部:子どもの頃に刺さった矢がずっと抜けない。64年から60経っているわけだから皆さん70歳超え。すごいことですよ。そうなるともう単なる音楽っていうものだけじゃないですよね。音楽だけじゃここまでハマれないから。大村さんはそのあとに『「ビートルズと日本」 ブラウン管の記録』『「ビートルズと日本」 週刊誌の記録 来日編』『「ビートルズ・ファン・クラブ」大全』という本を出されて、日本とビートルズという部門の専門になられたことに関してはいかがでしょうか。
大村:そういう立場になったという意識は自分の中にはあまりないのですけど、正直、申し訳ないなっていう気持ちはあります。先ほどの話にもつながるんですが、当時を体験してないですから。僕なんかよりもっと適任な方はたくさんいらっしゃるはずです。
竹部:これをできる人はなかなかいないです。日本のビートルズというテーマはこの本が出なければなかったわけですから、ビートルズ史に残るのではないかと思います。
大村:ありがとうございます。それは作った甲斐がありました。『ビートルズと日本』の巻頭に菅田さんの文章をいただけたこと、高く評価してくれたことも嬉しかったですし、その後に関しては、藤本国彦さんにお世話になった部分がものすごく大きいです。
竹部:まわりからの反応はいかがでしたか。
大村:本を通じて知り合いになった読売新聞の記者さんから、「参考資料として使わせてもらっています。会社のこの本は付箋だらけでお見せしたいくらいです」と言われました。ちょっと大袈裟な言い方になってしまうんですが、『ビートルズと日本』はビートルズのことを発信する人たちが使えるような本になればいいなと思って作ってもいましたので、そういったメディアの人たち、発信側の方々がこれを活用してくれていると聞いたときはすごく嬉しかったです。NHKのビートルズ特集のお手伝いをさせていただいた際、打ち合わせ現場に行ったら、スタッフ全員がこの本を持っていて、それもありがたかったです。あと、星加ルミ子さんがすごく評価してくださいました。「(厚いので)枕にもちょうどいいですよね」ともおっしゃってましたが(笑)。初代ビートルズ担当ディレクターだった高嶋弘之さんも、お会いするたびに「この本はよくできてるよね」と言ってくださいます。でも、必ず「デビュー・シングルのところだけケチがつくけど」というお言葉とセットです(笑)。
竹部:映画『ミスタームーンライト』にも出られましたよね。
大村:あれは藤本さんの推薦でした。普通の会社員生活ではまずできない体験をさせていただきましたね。いろいろな場所で発信できる立場になったことで、あまりいい加減なことと言いますか、間違ったこと、的外れなことを言わないよう意識するようになりましたね。しゃべったあとに「今のはあやふやですので、違うかもしれません」とか「家に帰って調べてからお伝えしますね」ということもあります。
竹部:わたしのビートルズ師匠の森川(欣信)さんもすごくおもしろいと言っていました。
大村:それは本当に嬉しいことです。ブログでも取り上げてくださって、恐縮しています。当時「ハード・デイズ・ナイト」が流れていたチョコレートのCMの話は、森川さんのインタビューを読んで知ったことでした。森川さんはインタビューの中で『森永ビートチョコレート』っておっしゃっていたのですが、実際は『森永ストロングチョコレート』だった。それこそ、記憶違いを非難するつもりは全くないです。ただ、なかなかそれについての情報に出会うことがなくて、唯一『毎日新聞』だけが広告を載せていたんですね。それを見つけた時は、「森川さんの言ってたのはこれか!」って、ものすごく嬉しかったですね。
竹部:そういえば最初に大村さんとお会いしたのって、『ビートルズ・ストーリー』のイベントのときじゃなかったですか。森川さん、星加ルミ子さん、藤本さん、真鍋くん、とわたしでやったやつ。イベントの中で大村さんが『ビート・ポップス』の台本があるとおっしゃって。
大村:実はその前に1回お会いしているんです。大井町のきゅりあんで、伊豆田浩之さんのライブで。あのときに僕と菅田さんを招待してもらったんです。
竹部:思い出しました。たまたま菅田さんが東京にいらっしゃるってことでそういう流れで招待したんですよね。覚えています。
大村:そのときが最初で、そのあとに『ビートルズ・ストーリー』のイベントなんです。
竹部:そうでしたか。いろいろつながりますね。そのあともいろいろなところで会っていますが、こうやって二人きりでお会いするのは今日が初めてなんですよね。
大村:そうなんですよ。
イルカのラジオで聞いた「レット・イット・ビー」
竹部:ここからはそもそもの話を聞きたいんですが、大村さんはいつからビートルズファンなのでしょうか。
大村:小学校5年か6年のときにラジオで「レット・イット・ビー」を聴いたんですよ。イルカさんのラジオ番組で。
竹部:イルカのラジオありました。『イルカの青空サンドイッチ』。日曜日の午前中じゃなかったかな。僕も聞いていましたよ。
大村:その頃出したイルカの「フォロー・ミー」という曲も好きで。
竹部:名曲!小田和正プロデュースの。それっていつですかね。ジョンの事件の前ですか。
大村:あまり覚えていないんですが、ポールが捕まったニュースとジョンが死んだニュースをテレビで見た記憶はあるんですよ。ビートルズっていう存在は意識していなくて、ビートルズっていうバンドが昔あって人気があったんだなっていう程度。
竹部:大村さんは69年生まれだから、小5だと80年。だからジョンの事件は記憶にあるってことじゃないですかね。僕とそんなにファン歴は変わらないんじゃないですか。でも調べたら「フォロー・ミー」はその翌年の81年発売でした。
大村:そうなんですね。じゃあ6年生の時かもしれません。「レット・イット・ビー」をカセットに録音したんですが、フルコーラスでかけてくれなかったから途中までしか聴けなくて、この先も聴きたいと思ってレコードを買ったんです。
竹部:小学生でビートルズはませていますよね。
大村:でも入口がよくなかった。『レット・イット・ビー』のLPを買っちゃったんです。まだベスト盤っていう存在を知らなくて。しかも最初の頃はレコードの探し方もよくわからなくて、お店でビートルズのレコードを探せなかったんです。それまでは歌謡曲のところしか見ていないし、それにロックっていうジャンルもわかってなかったんです。子供の頃のロックのイメージはキッスで、ちょっと過激な音楽だと思っていて、ビートルズはロックじゃないと思っていたんです。だからムード音楽とかボーカルっていうところで探していたんですよ。当然ですけど、そこにはないんです。それで店員の人に聞いたら、「ビートルズはロックコーナーです」と言われて。え、ロック?うわ、怖いなって思って(笑)。
竹部:確かに「レット・イット・ビー」「イエスタデイ」だとロックっていうイメージはないですよね。僕も最初は「イエスタデイ」が聴きたくて『ヘルプ!』を買いましたから。
大村:でもLPの『レット・イット・ビー』にはあまりはまらなかったんです。
竹部:わかる。僕も最初は『ヘルプ!』にははまりませんでした。せっかく買ったからということで修行のように毎日聴いていましたよ。
大村:同じです。そのあとに親戚のおばさんから『オールディーズ』のLPを借りたんですよ。それはよかった。全然違和感なく入った。あとはラジオでビートルズ特集をやるときは必ず聞いて、カセットに録音して。そこから先は多分みんなと一緒だと思うんですけど、「全部で何曲あるんだ、全部集めるにはどうするんだ」っていうような感じでした。
竹部:シネクラブには入りましたか。
大村:入っていましたよ。“公認”という言葉に惹かれて(笑)。竹部さんがシネクラブではなくてコンプリート・ビートルズ・ファンクラブに入ったのってすごく珍しいと思います。
竹部:自分でもよくわからずに入会したようなもので。でも復活祭は行っていたんですよ。
大村:僕も行っていました。九段会館とか読売ホールに。当時はまだビデオでビートルズを観ることができなかったからありがたかったんでしょうね。あの頃、『ハード・デイズ・ナイト』のリバイバル上映があったじゃないですか。ドルビーサウンドの。
竹部:83年ですね。
大村:シネクラブに入ったのはあの後じゃないかな。あのときに映画館の物販で『ビートルズ・フォーエヴァー』という本を買ったんです。その中に入会案内があって、それで入会したんだと思います。
竹部:『ビートルズ・フォーエヴァー』は結構重要なんですよね。
大村:我々世代にとっての『ビートルズ事典』に当たるかもしれないですね。でも今読むと、あれは『ビートルズ事典』をアップデートしただけと言えなくもないですよね。未発表写真も、海外で出た『ビートルズ・フォーエヴァー』と同じものですし。要は海外版に独自データを加えて作ったという感じですよね。
竹部:そうそう。でもそんなこと当時は知らないから、重宝しました。
大村:カバーを外した表紙の写真に載っているレコードの中に知らないのがあったりとかね。
竹部:あの表紙はいいですよね。大村さんはその後にブートに行くんですよね。思い出のブートはありますか。
大村:『ファイル・アンダー』ですね。最初に買ったブートだし、いちばん聴いたブートでもあります。あそこに入っている「ワン・アフター・909」にたまげました。あと「クリスマス・タイム・イズ・ヒア・アゲイン」の完全版はあれにしか入ってなかったんじゃないかな? 最後のピアノまで入っているやつは。
竹部:そうなんですね。『ファイル・アンダー』はジャケが魅力的じゃなくて買ってなかったです。封筒みたいなジャケに生写真が付いているみたいな。でも「クリスマス・タイム・イズ・ヒア・アゲイン」目当てに欲しくなりました。
大村:『ファイル・アンダー』は今でも聴きますよ。
竹部:そろそろまとめですが、今後の予定として、今まで話してきたような60年代以降の日本のビートルズの調査はやらないのでしょうか。
大村:70年代も出してくださいって言われることも多くて、やりたい気持ちはあるんですが、70年代は急激に情報量が増えてしまうんですよ。で、あちこちに点在はしているんですけど、60年代に比べて内容が薄い。それに海外の情報に頼ったものばかりで、日本発の情報が少なくて、あまり面白味がないんですね。それと僕の根性ですかね(笑)。
竹部:根性?
大村:このように新聞や雑誌をしらみつぶしする方法は、研究者たちの間では『根性引き』って言うらしいんですよ。だから根性(笑)。以前、70年代もやってみるかと、手始めに日刊スポーツだけ根性引きしたことがあるんです。そうしたら、大きな話題は再結成の噂とウイングス来日と、デビュー10周年や来日10周年といった周年行事くらいなんですね。
竹部:主要なやつだけ抜いてっていうのはどうですかね。
大村:あー、それはアリかもしれないです。重要なテーマだけピックアップというのであれば出来ると思います。面白いかもしれない。
竹部:この連載原稿を書くためにヤフオク!で、昭和のシネクラブの会報のバックナンバーを何冊か買って読み返したんですけど、面白いんですよ。ニュースも研究も寄稿も投稿も。あの時代ならではの空気、ファンの熱がこもっていて。で、疑問に思ったことがあって。僕が初めて復活祭に行ったのは82年8月の九段会館なんですね。そのときに日本公演の映像を流したことを覚えていて、その際、司会の浜田さんが、「ポールはライブ中にマイクを何回触ったと思いますか?」と客席に問いかけたんですよ。「実は数えたことがある人がいます」って言って、超満員のお客さんがざわざわする場面があったんだけど。で、マイクが不安定なのは6月30日じゃないですか。てっきり6月30日を観たと思っていたのに、会報を見たら、ファンの人が7月1日を上映してくれてうれしいって書いてあったんです。編集の人も7月1日を上映しますとあって、えっと思って……。自分の勘違いなのか、投稿者とファンクラブの勘違いなのか。
大村:うーん、それは気になる(笑)。
竹部:そういうのが気になるんですよね。どうでもいいことなんだけど。
大村:確かに。今の目線で当時の会報を読むと面白いかもしれないですね。海賊盤や楽器のコーナーも好きだったですね。結構充実しているんですよね、当時にしては。
竹部:そうなんですよ。繰り返しになりますが、いつか大村さんに70年代、80年代の日本のビートルズファン事情もまとめてほしい。ネット時代の今はもう体験できない話だから面白いし、我々世代のビートルズファンしか共有できない話だからこそ貴重なのかなと思うんです。今日話したことは。
大村:おっしゃる通り、その頃のことは意外に記録に残ってないんですよね。80年代にファンになった僕らが体験したことをまとめてみたいですね。
竹部:ぜひ。協力しますので。今日はお忙しいところありがとうございました。