昭和50年男が接した巨匠、ぼくの好きな大林監督

  • 2024.11.20  2024.09.08

2020年に逝去された大林宣彦監督。その現場を間近で見てきたマンガ家・森泉岳土が、偉大なる巨匠のアバンギャルドな映画制作とぶっ飛んだエピソードの数々を語る。

現場に行かないと何が起きるかわからない

森泉岳土/もりいずみたけひと|昭和50年、東京都生まれ。マンガ家、イラストレーター。2010年、『森のマリー』がマンガ誌に初掲載。最新作は『仄世界』(青土社)。妻は大林宣彦の長女・千茱萸

1977年、『HOUSEハウス』での商業映画デビュー以来、数多くの若者たちを映画の虜にし、劇場へと足を運ばせた映画作家・大林宣彦。80年代に作られた『転校生』(82年)『時をかける少女』(83年)『さびしんぼう』(85年)の”尾道三部作”は、青春映画のマスターピースとして今も多くのファンが絶賛を惜しまない。そんな大林映画と、我々昭和50年男が出会った作品となると、85年の『さびしんぼう』が最初だった、という人も多いだろう。今回はこの作品に代表される大林映画の魅力について、マンガ家の森泉岳土にご登場いただくことにした。ちなみに森泉のパートナーは大林監督の長女で、文筆家であり西洋食作法の講師でもある大林千茱萸(ちぐみ)。監督は義理の父にあたる。スタッフとして、また家族として見た監督・大林宣彦の人間力を存分に語っていただいた。

「大林監督といえば、僕のなかではテレビで識者としてお話しされている文化人、というイメジでした。最初に意識したのは、ある生放送のトーク番組にゲスト出演されていた時。手塚治虫さんとロサンゼルスのディズニーランドに行った話をされていたんですが、なんておもしろい話をする人なんだろうと。途中、CMが入って、それが明けると観客席にいた奥様の恭子さんを舞台に上げて、いきなり3人で話をすることになって。恭子さんは予期せぬタイミングだったのか『なんで私を呼ぶの?』っていう顔をしていました(笑)。型破りなことをして周囲を巻き込む、そんな印象がありましたね」〝恭子さん〞とは大林夫人であり、自主映画時代からの伴侶であるのみならず、大林映画のプロデューサーとして、ファンにはお馴染みの人物である。その後、森泉が大林監督と会う機会があり、その時初めて大林作品に触れたのだという。

「最初に観ておくなら、やはりデビュー作だろうと思って『HOUSE ハウス』を観たんです。それは、尾道三部作などのイメージで、僕の中にあった”ノスタルジックな青春や恋愛を描く監督”とは程遠い、ぶっ飛んだ映画でした。横尾忠則か?と思うほど、キッチュでカラフルな色合い、コラージュ感があって。ホラー映画と聞いていたけど、こわいというより美しくて恐ろしい、心の奥底にあるザワザワしたものを引き出されるような、妙な映画を観た、というのが最初の感想です。これからこの映画を作った監督に会うのか…と(笑)」

実際に、大林宣彦のフィルモグラフィは、一見多岐にわたっている。ひと言ではとらえられないその作風の幅広さは、まさしく〝映像の魔術師〞に相応しいものだ。

「『転校生』(82年)と『海辺の映画館‒キネマの玉手箱』(20年)はとても同じ監督が撮ったとは思えない。テーマや作風を選ばず、作品が求めるものを作ったらこうなった、という印象です。たとえばマンガを描く時も”僕自身が描きたいもの”と”読者が求めているもの”の間で揺れるということはありますが、それとは別に”作品そのもの”というのもあるんですよね。作品が自然に動いて、僕のコントロールが利かなくなっていく。そういうことって本当にあるんです。大林監督の映画も同じで、完璧な状態にして撮影に挑まれるんですが、次々と作品が求めている変化に対応していくので、思いついたものを足していくし、違うと思ったらセリフを変える。毎朝、俳優さんが泊まっている部屋のドアに、その日のシーンのシナリオ変更の差し込みが入っていることが当たり前のようにあって、現場に行ってみないと何が起きるかわからない。大林映画にはそういう特徴があるんです」

監督の隣で観た『時をかける少女』

森泉はもともと、10年ほどサラリーマンを経験していたという。仕事を辞めて、画一本で食べていく決意を固めて、最初の2年ほどはフリーターをしていたそうだ。

「その時は、友達の紹介で東京国際映画祭のスタッフなど、映画関係の仕事をしていたんです。そのタイミングで、大林事務所のデスクの方が辞めることになり、恭子さんに『じゃあ森ちゃん、やって』と声をかけられて、1年ぐらいの予定が5年も勤めていました」

そのスタッフ時代、大林映画を何作も観たという森泉には、忘れられない記憶がある。

「大林監督の特集上映だったと思いますが、初めて『時をかける少女』を、監督の隣で観たんです。それは緊張しますよね。でも、本当に大感動して、上映後に監督に『(原田)知世ちゃんが、最後、僕に向かって微笑んでくれたんです!』と言うと、監督は『あれはね、俺を見て微笑んでるんだよ』っていちばん言われたくないことを言われました(笑)」

『さびしんぼう』もやはり、そういった特集上映の席で、やはり監督の隣で観たのが初めてだったという。

「富田靖子さんの美しさはもちろんですが、尾道の風景も本当に美しくて、これは映画を観た人は尾道に行くよね、ロケ地巡りしたくなるよね、と思いました。富田さんだけでなく、尾道の街にも恋をしてしまう。それも、本当の尾道ではなく、大林監督の目を通した尾道に恋するんです。それこそ監督が生まれ育った街で、端から端まで知っている。そこを紹介するんだから、胸がキュンキュンしちゃいますよ」

尾道はご存じのとおり、大林監督が生まれ育った街である。『HOUSE ハウス』以降、何作かの商業映画を撮った監督は、自主映画の形で『転校生』を尾道で撮影、その後、角川映画の新人女優・原田知世を起用した『時をかける少女』を経て、2年ぶりに尾道を舞台に少年の片想いをノスタルジックに描いたのが『さびしんぼう』だった。ヒロインの富田靖子は、尾美としのり演じる主人公・ヒロキの憧れの君・橘百合子と、白塗りでピエロのような奇妙な格好をした不可思議な存在の「さびしんぼう」の二役を演じた。

「この映画に出てくる尾美さんをはじめとする3人組は、どうみても子供時代の監督ですよね。と言うより尾美さんが監督の分身なんだと思います。ピアノを弾いていること、片想いして失恋する、なんていうお話も、尾美さんを見ていると監督とダブりますよね。尾道三部作って、全部失恋のお話なんですよ。だから監督のなかには、自分の少年時代は片想いの時代、そういう思いがあって、『さびしんぼう』のような映画ができたのかな、と思っています」

尾道三部作すべてに出演している尾美としのりは、3作ともすべて淡い恋が片想いで終わっている。自分の分身にそういう役を背負わせたのは、監督自身に片想いというテーマが尾道時代にあったのだろう、と推測できるのだ。

『さびしんぼう』は究極の片想い映画

ところで、『さびしんぼう』は、『転校生』と同じ山中恒の『なんだかへんて子』が原作となっているが、映画はいくつかの設定が原作に基づいているだけで、構成される要素のほとんどは大林監督のオリジナルである。そして『さびしんぼう』というタイトルは、はるか昔、まだ自主制作時代から大林監督が温めていた企画で、古くはモデルのハニー・レーヌを起用してCMを撮影した際の演出が「初代さびしんぼう(的な要素)だった」と、生前に大林監督は語っている。ハニー・レーヌはその後、大林監督の『瞳の中の訪問者』(77年)に出演している。また、山口百恵で『さびしんぼう』を撮る考えもあったという。

また実際に、70年には個人映画で『海の記憶=さびしんぼう・序』という作品があるが、これは初代さびしんぼう候補だった木下桂子を呼んで、映画『さびしんぼう』の擬似撮影風景を撮ったというもの。この時に撮影されている、という体の映画『さびしんぼう』自体は断片でしか描かれていない…と言ったように、「さびしんぼう」とは大林宣彦の脳内にあるひとつのテーマであり、それが形を変え断片的に過去の作品にも登場し、この85年の映画で、ひとつの物語として完成したのである。

「『さびしんぼう』は、発想としては、それこそ尾道で8㎜を撮っていた頃からあったと思います。個人映画で作ろうとしたみたいですが、こういう話ではなかったようです。もう監督のなかにそのタイトルがあって、エレメントさえ入っていれば『さびしんぼう』なんだ、ということでしょう」

そして、森泉は『さびしんぼう』について、不思議な映画だという感想をもっている。

「まず、110分の映画で、肝心のさびしんぼうが出てくるシーンって25分目なんですよ。富田靖子さんが演じるもう一人の百合子も、冒頭にチラッと出てくるけど、実際に尾美さんと会って会話するのはずっと後です。そんなになかなかヒロインが出てこない映画って、ないでしょう?」

確かに、主人公がずっとヒロインを見つめているだけの、ある意味究極の片想い映画と言えるかもしれない。

「珍しい作品ではありますが、これが通用していた時代は、なんて豊かなんだろうと思います。今なら初めからヒロインを出せ! ってブーイングになりそうですよね。それが受け入れられるって、よほど成熟した観客がいた時代なんだな、と思います。あとは、これって結末まで観ると、お母さんと息子の話。言ってしまえばお母さんの恋の話でもあるんですよね。その辺りは監督のマザーコンプレックス的な部分が出ているというか、子供の頃、父親が戦争に取られて、お母さんと二人で長く暮らしていた時期の影響もあるのかな、と思います。監督は、母と息子、父と娘を描こうとすると、純愛映画になる。そういう特徴があるようですね」

ちなみに、『さびしんぼう』は、黒澤 明監督がいたく気に入った映画で、黒澤組のスタッフにこの映画を観るようすすめたというエピソードがある。作家性は全く異なると言っていい二人の監督の交流は長く続き、黒澤監督の映画『夢』( 90年)では、大林監督がメイキング映像の演出を手がけた(『MAKING OF DREAM 夢 黒澤明・大林宣彦映画的対話』。そして、もうひとつのエピソードになるが、この映画の撮影中に、実は東宝から大林監督に『ゴジラ』を撮ってほしいという要請があったそうだ。

「その際、初代『ゴジラ』をはじめいくつものゴジラ映画を撮った本多猪四郎監督がご存命だったんです。大林監督と本多監督は家族ぐるみでのおつき合いもあったので、『本多監督には話をしたの? あの人が撮るなら俺は助監督をやってもいいよ』と提案したそうですが、『いえ、もうあの人は東宝の社員じゃないので』と言われ『そんなことでは撮れない。ちゃんと本多さんに筋を通さないと』と進言したんだそうです。そうしたら、現場に見学に来ていた大森一樹監督が『じゃあ僕、撮ります!』って言って。大林監督は『大森、お前は何もわかってねぇなぁ』って説教したそうですよ(笑)」

「少年時代は片想いの時代という思いがあって『さびしんぼう』のような映画ができたのかな」

『この空の花』で体験した大林映画の創作の秘密

さて、大林事務所のデスクとなった森泉は、映画の撮影現場やスタッフとしても活動。監督の撮影を間近で見る機会も多くなった。

「最初は『理由』(04年)の現場でしたが、この時は皆さんの邪魔にならないように、少し見学させてもらった程度です。次に『その日のまえに』(08年)ではエキストラが必要だと言うので召集されて、商店街を時代錯誤な服装で歩いている人たちの一人として出ました。ピッチピチのバミューダパンツを穿いて、カメラの前を横切ったんです。これ絶対に映るな、と思って本編を見たらカットされていました(笑)」

一作丸々大きく関わったのは、その次の作品となる『この空の花‒長岡花火物語』(12年)。この時は、長岡の人たちが監督のところに映画作りの要請に来たところから、完成披露試写まですべてに関わったという。ちなみにこの劇中の空襲で襲来する空いっぱいのB29の絵は、森泉によるものだ。

「忘れられないのは、監督がシナリオを一から書くのに、全部つき合ったんです。監督が手書きで書いたシナリオを僕がパソコンに打ち込んで、シナリオの形にしていく。そこに監督が赤入れをして、どんどん変わっていく。それをずっとやっていると、監督が何を考えてそのセリフを書いたかがわかる。ですか

ら現場で助監督さんが『ここのシナリオの意味がわからないんだけど』ということが起きると、僕が説明するんです」

というのも、この時期から大林映画は、ものすごく速いテンポで、すさまじい情報量を観客に観せる、世界にもあまり例がない独自の世界観が現出するようになったのだ。

「AとBが結びついているだけでなく、AとC、BとCも結びついて複雑に入り組んだ構成になっているうえ、過去と現在、死者と生者が同時に出てくる。一見、ごちゃ交ぜに思えるんですが、どれとどれが線で結ばれているか、それに気づいた時に、勝手にこちらが滂沱の涙を流している…そんなことが起きる映画なんです。監督自身も『俺も10回観てどんな映画かだんだんわかってきた』と仰っていましたが、そういうものを作るのが目標だったんです」

なぜ、そうなるのか。それは前述のとおり、作品がいきたがっている方向へ自然と導かれていくからなのだ。

「でも、小説やマンガなら一人で作業するからわかるんですが、集団芸術である映画でそれをやる人っていないですよね(笑)。特に『この空の花』は、東日本大震災が起きた後、監督が最初シナリオを、長岡で書き直したいとおっしゃって、まだ余震が激しい時に長岡で書かれているんです。その場所で書いたことで、感じるものがあったんだと思います。あと、この映画からデジタルを本格的に導入したことも大きかったでしょう」

当時の映画界は、フィルムからデジタルへの本格的な転換期であった。多くの映画人は、どうやったらデジタルでフィルムと同じように撮れるか、を思案していたが、大林宣彦はデジタルでしかできないこと、デジタルで何ができるかを常に意識していたという。

「役者の芝居を、5台のカメラで同時にいろいろな角度から撮る。そうすると、編集マンに『ここからこう撮ったカットある?』とリクエストして次々に足していく。字幕を入れたり、色を変えたり合成したり、デジタルならではのよさを覚えてしまったんですね。合成が楽しい! といつもおっしゃっていました」

この時の長岡ロケでも同様だが、17年の『花筐/HANAGATAMI』での唐津ロケ、20年の『海辺の映画館』での尾道ロケでは、ロケ地でわざわざ倉庫を借りてグリーンバック撮影を行っている。東京のスタジオで撮れば済むことをなぜ?と普通は考えるのだが、それについても森泉は以下のように説明してくれた。

「尾道なら尾道、その場所の空気で撮りたいというのが監督にはあったのだと思います。これに近いことは昔からやっているんですよ。たとえば新人の女優さんを起用した場合、その人が冬休みや春休みの期間に、撮影してしまう。学校にはちゃんと通わせるけれど、その代わり現場にはずっといてもらうんです。原田知世さんも、『ふたり』(91年)の石田ひかりさんも、撮影中は尾道にずっといて、出番がなくてもそこで生活させる。他の人の現場を見て、演技のテンポを理解してもらうんです。昔の撮影所システムのスタイルなんですね。そこまで演技経験のない新人さんだと、一度集中力が切れると元に戻すのは大変だ、というのもあるでしょうし、同じ空気をずっと味わわせて作品を撮ることを、昔の伝統どおりにやっていた。マネージャーさんも現場に来させない。家族役の俳優さんと、本当の家族のように生活して環境を整えるのが監督の仕事で、『それさえできれば、あとはみんな勝手にやってくれるから』とよく話されていました」

その前提となるのが、たとえば尾道という場所だったのかもしれない。大林映画にとって、尾道もまたひとつの素材になっていたのだ。

尾道に帰ると監督は子供に戻ってしまう

森泉が見た、普段の大林監督というのは、どういう人だったのだろうか。

「ダジャレが好きなんですよ(笑)。本当に、しょうもないダジャレがパッと出てくるんですが、人を楽しませよう、という気持ちからくるんでしょうね。撮影現場でもそうそう怒ることはなく、スタッフに怒る時も『俳優さんを日向に立たせっぱなしで放っておくんじゃない』とか、ちゃんと筋が通っているんです。でもそれ以外の現場は、普段のプライベートとそんなに変わらないですよ」

なかでも、尾道に俳優たちと出かけた時の話は忘れられないという。

「尾道の坂の細い道を、常盤貴子さんと長塚圭史さんと、僕と千茱萸さんで歩いていた際、監督が『その道をまっすぐ行ってごらん』というのでそのとおりにすると、上の方の道を猛ダッシュで監督が走って、我々を追い抜こうとしているんです(笑)。もう完全に子供に戻っていて、あのイタズラっぽい笑顔が忘れられません。尾道に帰ると子供に戻るんでしょうね」

その感性のまま、尾道三部作や『ふたり』、あるいは『海辺の映画館』を撮影していたのだと思うと、ああいったピュアな思春期の片想いや、死者と生者の共存、戦争の記憶などが尾道ロケの作品で顕著に現れているのも、当然のことなのだろう。

道具を変えたぐらいで自分は変わらない

現在は、『報いは報い、罰は罰』『アスリープ』などの傑作マンガを世に送り出し、数多くの書籍装画でも活躍している森泉が、大林監督から受けた影響は、どのようなものだったのだろう。

「作品は命懸けで作る、ということですね。監督はいつもニコニコされているけれど、撮影現場で『ヨーイ、スタート!』がかかってからカットをかけるまで、顔は笑っていないんです。人が真剣になった時の顔って違うんだな、とそれほど迫力のある恐ろしい顔をしていました。その1カットに命をかけている。それを見てしまうと、僕も創作者の一人として、あのくらいの覚悟で取り組まなければいけないんだな、と思ってしまいます」

大林作品を観て、マンガ家として勉強になったこともあると語る。

「松竹で撮影した『異人たちとの夏』(88年)、あの頃の作品も大好きなんですが、主人公の親友が家にやってきて『君の別れた奥さんとつき合ってるんだ』って、どうにも対応しづらい話をして(笑)、ウイスキーの入ったグラスを置いて、向こう側のドアから帰って行くんですけど、そのグラスがずっと置きっぱなしになっていて、画で人がいなくなったことをわからせているんです。画で表現するとはこういうことなのか、と、マンガ家として勉強になりました。映画のなかにそういう場面は結構あって、坂道に2人が立っていて、どちらが上にいて、どちらが下にいるかで演出も変わる。そういう表現が本当にお上手なんです」

また、前述のデジタル撮影の話も、大きな影響を受けたそうだ。

「監督は実際に映画史を生きている方ですから、モノクロのサイレント映画の時代から、トーキーになり、総天然色になり、デジタルへと移り変わっていった、それらにすべて対応してきたんですね。8㎜で映画を作るなら、黒澤明にできないことをやらなくてはいけない、8㎜でフィルムの真似をしてもしょうがない、だからキャッチボールをボールの視点で撮影したり(『だんだんこ』57年)、道具を使って何を作るか、何ができるかを常に、現実的に考える姿勢でしょうか。僕も、この道具でなければできないことは何か? この作品にはどういう道具を使えばいいか、その度にスタイルも変わるんです。マンガを描く時も、『これが自分のスタイルなのでブレません』という姿勢を貫くよりは、この表現をした方が伝わるなら、スタイルを変える方を選びます。作品が望んでいるものは何か、それによって道具を変えて、これは鉛筆で、とか、ボールペンを使う時もあるし、絵のタッチも変えます。逆にマンガの道具で書かなければダメ、というこだわりがないんです。そこは監督からの影響が大きいですね」

そうなると、オリジナリティが出しにくいのでは? とふと思ってしまうが、森泉の作品を見ても、大林監督の映画を見ても、確固たるオリジナリティがそこには存在している。

「それは『道具を変えたぐらいで自分は変わらない』と思っていますし、おそらく監督もそのようにお考えだったと思います。なぜなら、監督は自分に嘘をついていないから。だからオリジナリティは映画にちゃんと残っているんです」

『ぼくの大林宣彦クロニクル』 (光文社) 1,980円

2020年4月に逝去した大林宣彦の娘婿・森泉岳土が、好奇心旺盛でチャーミングな義父の姿や一緒に過ごした日々を綴る。家族のひとりでありながらも、外から見ていたからこそ描けた“わたしたちの知らない”大林宣彦とっておきの話

(出典/「昭和50年男 2023年9月号 Vol.024」)

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