ジャッキーみたいなアクションをやってみよう
「台本には電車から飛ぶなんて書いていませんでした(笑)」
『ビー・バップ・ハイスクール』の1作目で、走る電車からのダイブを決めた男の一人、瀬木一将は「やれと言われれば、やりますけどね」と笑う。そもそも、なぜ瀬木はスタントを志すようになったのか。瀬木は高校を出て上京、デザインの専門学校へ入学する。
「身体を動かすことも好きでしたが、子供の頃から絵を描くことも好きだった。それで、新聞奨学生で入学したんですけど、出席日数が足りなくなりましてね(笑)」
結局、デザイン会社のサラリーマンになった。
「『ぴあ』を読んでいたら黒澤明監督の『乱』( 85年)のエキストラを募集していたんですよ。応募したら、あっさり落ちた。やっぱり殺陣ができた方がいいよなぁ、なんて思っていたら、今度は東映アクションクラブの募集を見つけたんです」
デパートなどで行われるヒーローショーのスーツアクターなどを育成するためのクラブで、当時、大泉(東京都練馬区)の撮影所にあった。期間は1年、生徒は20人程度。瀬木は1週間に1回、会社帰りに通うようになった。
「僕は4期生で、同じ期には唐沢寿明くんがいました。基礎を教えてもらったら、5〜6人でグループを組まされて週末にヒーローショーへ行かされるようになりました。会社も休みだから、バイト感覚で行きましたね」
クラブの講師として来ていたのが、高瀬道場の創設者である高瀬将敏と、その息子・將嗣だった。将敏は日活技斗部を立ち上げて、日活ニューアクションを支えた人物で、日活退社後は高瀬道場を設立、テレビ『特捜最前線』(77〜87年)などの技斗を担当していた。
「そのうちに『九州で3ヶ月拘束の舞台があるんだが、ウチに来ないか』と誘われたんです。『おもしろそうだから行きます!』と、会社を辞めました」
1年経ち、気づけば二番目の古株になっていた。
「そのうち『特捜最前線』も何度か犯人役で出してもらえるようになっていましたね」
ちょうどこの頃、体調を崩しがちになった将敏に代わり、息子の將嗣が仕事を代わって務めるようになった。將嗣の方が学年は上だが生まれ年は同じという年の近さもあって、瀬木は將嗣とよく連れ立って映画を観たり、酒を飲んだりしていた。
「当時の映画館は自由席なので、ジャッキー・チェンの映画とかはラスタチ(クライマックスのアクション)から入るんですよ。そのあともう1回とおして観る。2回観てアクションを頭に入れる。確か『ドラゴンロード』だったかな…先生(將嗣)が『ジャッキーは動きもアクションの構成もすごいけど、あの痛そうな受け身が新しいよな。オレたちもああいうアクションをやっていこう』なんて話をしながら飲んでいました」
將嗣も瀬木も20代、若き男たちが酒場で語っていた夢は、意外なスピードで実現する。『ビー・バップ』の監督・那須博之から、將嗣に技斗の依頼が舞い込んだのである。那須は將嗣にこう言った。「オレたちで誰もやったことがないようなシャシン(映画)を作ろうぜ」と。
当てて、はねて…高瀬道場流のアクション
「時間はなかったですね。仲村トオルさんたちが稽古に来て、ほどなく現場入りというスケジュールだったので。それから少しして、先生が”顔から下は当てることにしよう”と言ったんです」
通常のアクションシーンでは、当然ながらパンチやキックを実際に当てることはしない。だが『ビー・バップ』では当たることを前提としたアクションの手順で組まれた。
「ほとんどが素人、しかも指導をする人数も多い。彼らを教えて映画用のアクションにするには時間がかかる。それに経験がない分、意図と反して当たることも多くなるだろう、と。なので野球のプロテクターや、サッカーのすね当てなど、子供用の防具を学生服に仕込んで、当たってもケガをしないような準備をして、手順をつけるようにしたんです。プロテクターの着いていない顔面を殴るシーンは、ちゃんとリアクションの演技ができる僕たちが入る、という組み立てです」
『ビー・バップ』のアクションシーンは將嗣率いる高瀬道場の面々がリードをして組み立てた。そして、將嗣を信頼していた那須も、そのアイデアを次々に取り入れていった。
「道場では、先生とメンバーでアイデアのミーティングをしました。均太郎がサッカーゴールまで吹っ飛んでいくシーンなどは、そこで出たものでしたね」
『ビー・バップ』のアクションには、將嗣たちのさまざまな工夫が仕込まれている。水やほこり、ワイヤー、ガラスといった場所と条件にあった効果で、体技だけでは出しきれない味を演出している。たとえば1作目、くるぶしくらいまでの水深の目黒川で、トオルたちと戸塚水産の面々のチェイスなどは、水しぶきが上がり、ただ走るだけのシーンとは違った趣がある。
「でも、川は汚かったですよ(笑)。僕たちも川底の石で切ったり擦ったりして、その傷口が膿んだり腫れたりするんです。すぐに医者で抗生物質を打ってもらったのを覚えています」
上から見たら、トラックの荷台は、わずかA4サイズ
ちなみに『ビー・バップ』で瀬木が最も恐怖を感じたスタントは、アーケードからの4人連続の飛び降りだったという。
「10mくらいあったかな…下に4t車があって、その荷台に段ボールを敷いて、上にエバーマットを載せて。上から見るとA4の紙一枚くらいなんですよ(笑)。しかも次々と人が飛び降りなければいけないので、最後に飛び降りる衣笠拳次のスペースを空けるのに、飛び降りた順に右へ左へとよけていきましたね」
緊張のなか、撮影はOK。だが、2回目を撮るはめになった。
「『すみません、窓から人がのぞいて映り込んでしまいました!』って…そりゃ、あれだけ大騒ぎしていれば、人も見るでしょうって話ですよ(笑)」
ところで、高い場所から安全に飛び降りる方法とは何か。
「安全にマットへ落ちるためには、頭を打たないように、頭を身体の中に入れて、背中から落ちる必要がある。これは高さによって頭を入れるタイミングが変わるんですよね。あまり早く頭を入れてしまうと、身体が速く回転してしまって、かえって危ない状況になります」
ここに先ほどの効果が加わると、タイミングも変わってくる。瀬木は『ビー・バップ』と同年に公開されたチェッカーズ主演映画『CHECKERS in TANTANたぬき』の経験を語る。
「ディスコの2階からアメガラスを突き破って、3mくらい下に落ちるというスタントをやったんですよ」
アメガラスとは、デンプンなどで作られた撮影用のガラスで、本物のような危険性は少ない。
「スタッフから『このアメガラスは少し固いぞ』と言われて、勢いをつけて飛び降りたんです。ところがそんなに固くなくて、用意していたマットを飛び越えて背中から落ちちゃった。ケガはなかったんですが、それ以来、アメガラスをあまり信頼できなくなってしまいました(笑)」
走る電車からのダイブ。望んで背中から落ちた
そして現在も語り草となっている、走る電車からのダイブシーンだ。映画では当然1回だが、撮影では瀬木と高山瑛光の二人が、2度飛んでいる。「最初はカメラを4台使うという話で、1回の飛び込みの予定だったんですよ。ところが、撮影の前日にカメラが2台しか用意できないので、2回飛び降りないといけないという話になって…」
瀬木は背面から、高山はガラスを突き破って前から飛び込んでいく。
「落ち方にも違いをつけないとおもしろくないと、演出を先生が考えました。僕が背面から飛ぶのを希望したはずです。アメガラスは懲りていたので(笑)」
橋には鉄柱があり、その合間に飛ばなくてはならない。川の深度も含め、前日から綿密な準備が進められていた。
「鉄柱の通過するタイミングを、先生がストップウオッチで測ってきっかけを出す。僕はそれを横目で見ながら、仲村さんに蹴られて背中から落ちる…」
すべて予定どおりだった。
「落ちたら水底に背中が着いていました。いてっ、と思って立ち上がったら、腿ももくらいまでしか水がなくて(笑)」
海に近い場所。撮影が押して干潮の時間になり、川の水深も浅くなっていたのだ。
「だから最初のトライでは回りすぎてバックドロップみたいになってしまっているんですよね。だから2回目はタイミングをずらして、きれいなダイブになるように…って、映画を観ていただくとわかると思います」
瀬木は何度も何度も危険なアクションにトライをした。こわくはなかったのだろうか。
「だって、やれって言われたら、やるしかないじゃないですか」
そう言って瀬木はにっこり笑った。これぞプロである。
瀬木はその後も数々の話題作に携わっている。『さらばあぶない刑事』(16年)の冒頭で火だるまになっているのも、瀬木だ。
「希望者を募ったら、誰も手を挙げないので…。ただ、1本目の映画でベンガルさんの代わりに火だるまになったのがファイアースタントの最初だったから、収まるところに収まったのかな(笑)」
將嗣が亡くなった今も、瀬木は師範として高瀬道場で後進の指導に当たっている。
(出典/「昭和50年男 2023年9月号 Vol.024」)
取材・文:一角二朗 撮影:鬼澤礼門
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