「Pt.アルフレッド」代表・本江さんと「玉美」相羽岳男さんの出会いとは?
「初めてアメ横に足を踏み入れたのは1976年。上京した兄の家へ居候したときのこと。その後「ヘインズ」のパックTに「リーバイス」501がマストな時代になると、渋谷で買うよりアメ横の方が安く買えると先輩に聞いて山手線を半周し、再びアメ横へ。中でも「玉美」さんはモノが揃ってると界隈で噂になり10代のころから通ったお店です。
先代がエプロンをして忙しそうに店頭に立たれてた時代。ボクは28歳で独立し、友人の紹介で現代表となる相羽さんとのお付き合いが始まりました。オリジナルのシャツ作りを手伝わせてもらったり、数年前ですがボクが上梓した『オヤジの着こなしルール』を読んでいただき感想をもらったり、都内では数えるほどしかなくなったこだわり満載、街の洋服屋のオヤジを紹介します!」(本江さん)
ファッションへの目覚めと 西海岸カルチャー
「出身は群馬の田舎ですから東京ほどファッションが盛んではなかったのですが、兄が高校へ進んだ頃、高崎に『VAN高崎』と『緑屋』という「VAN」を扱う店がふたつほどできました。すぐさまアイビースタイルへと傾倒した兄のお古を着始めたのがファッションに興味を持ったきっかけです。まだ小学校高学年だったので周りと比べるとかなり早かったと思いますね。その後、高崎の高校へ進学し、僕も『VAN高崎』に入り浸るようになっていきました」
初めてファッションを意識して購入したのはブラックのシェットランドニット。「VAN」のブラックパンツに合わせ、「VAN高崎」のスタッフたちに叱られて以来、自身の中で黒尽くめはご法度となったという。さらにレジェンドサーファーでもあるジェリー・ロペスが製作に携わった映画『ビッグ・ウェンズデー』(1979年日本公開)の封切りとともにサーフィンにも傾倒していった。
「ファッションでやっている連中、いわゆる“丘サーファー”と呼ばれるやつらはカッコだけ真似てディスコでナンパばかりしていましたけど、僕はどっちも楽しんでたかな(笑)。ちょうど西海岸のファッションに興味が出てきたのも、その頃だったと思いますね」
高校卒業後は東洋美術学校へと進みグラフィックデザインを専攻し、日暮里にあった鞄メーカー「タカイシ」へ就職。企画部に配属された1年後、代表が新たな事業として御茶ノ水にスポーツショップをオープンすることとなり、その立ち上げメンバーに抜擢された。
伝説的スポーツショップSJハイストン
「それまで雀球屋(パチンコの一種)だった御茶ノ水の店をスポーツショップに鞍替えすることとなり、当時「ミナミスポーツ」でバイヤーをやられた上平さんという方を引き抜き、スポーツ&ジーンズの頭文字に「高石」の英訳を繋げるかたちで「SJハイストン」をスタートさせました。もともと親会社となる「タカイシ」は「スポルディング」のライセンスを持っていたため、スポーツショップを立ち上げることでファッションだけでなく、スポーツ関連とのパイプを拡げようと考えていたようです」
インポートを中心としたカジュアルウエアとサーフボードやスケートボードを同列に展開するその試みは、「当時としては非常に画期的だった」と本江さんも言う。
「確かに画期的だったかもしれないですね。当初はBDシャツなど東海岸由来のウエア類を展開していましたが、徐々に西海岸のユースカルチャーにフォーカスするようになり、当初のお題目でもあった「ラングラー」や「ビッグジョン」、「エドウイン」といったジーンズも取り扱うとのことで、メーカーに直接掛け合って直営店で修行を積ませてもらったり、本当にいろいろやりましたよ。
最盛期には御茶ノ水本店、池袋サンシャインシティ ワールドインポートマート店、新宿アルタ店、渋谷店(東急ハンズの目の前という好立地)の全4店舗まで事業も拡大していたのですが、オープンから8年が経った86年、突然クローズすることとなりました。まさに絶頂期でのクローズでしたが、それもまた雀球店を畳んだ時と同様に社長の気分だったのかもしれません(笑)」
アメ横の老舗玉美の後継者へ
こうして散り散りとなった同店スタッフの多くが「ムラサキスポーツ」などに引き抜かれる中、相羽さんは知人の紹介で知り合ったアメ横の老舗『玉美』2代目のご令嬢と結婚。「SJハイストン」の立ち上げから8年ほどで退社し、新天地にて新たなスタートを切っていた。
「まあ、同僚もいっぱいいましたからクローズは確かにショックでしたが、僕は幸いにもすでに『玉美』の人間になっていました。義理の父に聞いた話だと、戦後間もない頃は女性用下着を専門に扱っていたみたいですが、徐々に男性用下着も扱うようになり、60年代に起こった“ワンポイントブーム”(胸にブランドシンボルをワンポイント刺繍したウエア類の大ブーム)を境にカジュアルウエアへシフトしていったようです」
「ミウラ」を母体とする「シップス」はじめ、多くのインポートショップが軒を連ねるアメ横においても、戦後間もない1950年にスタートした「玉美」は、当時から界隈では一目置かれる存在だったという。
「上野アメ横というエリアは昔から商魂たくましいというか、その時々の流行や気運によって商材をガラリと代えたりする店が多い傾向にあります。とはいえ、今も生き残っているショップの多くは、当時からちょっとした提案性やオリジナリティがあったと思うのです。皆が知っているようなメジャーブランドやアイテムではなく、あえて日本ではまだあまり紹介されていないモノを探し出し、お客様に提案する。ウチも含め、そんなちょっとした提案性が徐々に定着していったように思います」
相羽さんが「玉美」へと移籍したのとほぼ時を同じくしてショップオリジナルブランドもスタート。国内の生産背景と密に話し合いながら、本格トラッドシャツを手掛ける「パインウッド」などが作られた。
「売るのも当然楽しいですが、やっぱり自分たちで作るものは思い入れが違いますね。生地メーカーさんや縫製工場と話し合いながら常に「玉美」らしいものを、さらになるべく良いものを届けたいとの思いからスタートし、今なお国内生産にこだわり続けています。やっぱり手の込んでいないインスタントな服は面白みがないですし、ブランドタグひとつにしても昔のものほどカッコいいじゃないですか。ちょっとばかり生産コストが嵩もうとも、そういうこだわりだけは捨てたくないですね」
変わりゆくアメ横への思い
60年代のアイビーブーム以降、アメ横は常に東京のユース世代を魅了するファッションの登竜門でもあった。なかでも創業から74年を数える「玉美」は、言わばアメ横の生き字引であり、この街を長年定点観測してきた数少ない証言者でもある。
「近年はご存知のように外国人ツーリストの街となり、かつての面影は徐々に薄れつつあります。若い世代の往来もかなり減っていますし、お店に足を運んでくれる顧客の方々も僕らと一緒に歳を重ねてきた世代が中心となりました。
でも、時代とともに街の様相は変化しているとはいえ、アメ横という街の本質は、実はあまり変わっていないように思いますね。ことファッションに限っても、10年周期とはよく言ったもので、およそ10年ごとにアメリカとヨーロッパのものへの関心が入れ替わりながら現在に至りますが、そんななかでも本質的な部分はあまり変わっていない。
戦後の闇市からスタートし、創業70余年を迎えることができましたが、100年経っても生き残るショップとなれるよう、次の世代に上手なバトンタッチができればいいと考えています」
本江MEMO
本連載への出演をお願いしにアポなしで久しぶりにアメ横へ伺い、変わらない高架下に感涙。相羽さんには「他にもたくさんいらっしゃるだろうから、どなたか他の方でお願いします」と言われたものの、「SJハイストン」から「玉美」へとつながる話をどうしても盛り込みたく、さらに往年のアメ横を知る数少ない証言者としてなんとかご快諾いただきました。「Pt .Alfred」は今年でやっと30周年ですが、「玉美」さんと比べるとホントにまだまだだな~と。頭が下がります。
(出典/「2nd 2024年5月号 Vol.204」)
Text/Takehiro Hakusui Illustrator/Maki Kanai
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