最良のアウトドアズマンであり優秀なビジネスマンでもあった
創業者エディー・バウアーは1899年10月19日、米国ワシントン州ピュージェット湾北部のサンファン諸島にあるオーカス島で生まれた。温暖な気候に恵まれ、東はカスケード山脈、西はオリンピック山脈がそびえ立ち、淡水から海水まで豊富な水源が広がる、アウトドアズマンにとって絶好の場所で幼少期を過ごす。
14歳でシアトルの街に出たエディーは、「パイパー&タフト」というスポーツ用品店で生涯をかけたアウトドアビジネスのキャリアをスタートする。手製で釣竿やゴルフクラブを作り、釣具やアウトドアウエアを売る方法を学んだ。
その後、「ボブ・ニュートンズ・ガン・ショップ」に移ったエディーは、豊富なアウトドアへの知見を活かして、狩猟・釣り用衣料、キャンプ用品、カヌー、履物のマネージャーを担当。同時に店の宣伝、広告、ウィンドウディスプレイの企画も任される重役に就く。最終的には店の一角を間借りして、自身の名を冠した「エディー・バウアー・テニス・ショップ」を構えることに。
当時、テニスラケットは弦の貼られていない状態で販売されており、力の必要な弦張りには若くて屈強な男が必要だった。さらに容姿端麗のエディーはショウウィンドウを使ったデモを行うなどで人気を獲得した。
こうして販売や宣伝の才能を磨き、1920年、20歳になったエディーはついに自身の店「バウアーズ・スポーツショップ」を開業。仕入れ以外にも、オリジナル商品の開発に力を入れた。特筆すべきはその巧みな販売戦略だった。
アメリカでバドミントン競技を普及させるために、フェザーを使ったシャトルコックを開発した際には米国特許を取得して、全国大会に提供した。羽毛を使用したフィッシングフライを作れば、マイナーだったソルトウォーターフィッシングを訴求するためにクラブを発足するなど、ビジネス的な才能も目を見張るものがある。こうして、エディーのショップはたちまちシアトルアウトドアの中心地となった。
エディーが遺した数々の功績
1.世界基準となるバドミントン用シャトルコックを開発
大恐慌時代、アメリカでバドミントンを普及させるためには高品質なシャトルコックが需要であると考えたエディーは、釣具業者から入手したガチョウの羽根とコルク、そしてキッドスキンでまったく新しいシャトルコックの開発に成功した。飛距離や軌道にバラツキが少ないこのシャトルコックは世界中に広まり、全米大会でも採用されるほどに。1935年にはエディーにとって初めての特許をアメリカとカナダで取得している。
2.キルティングダウンに関する特許を11件取得
内包したダウンが偏らないために開発されたキルティングデザイン。エディーはその先駆者として、ダイヤモンド、スクエア、ヘリンボーンなど、11ものキルティングパターンの特許を1940~60年にかけて取得。「競合他社のウエアは約15mの距離からでもデザインの違いがはっきりしないと認められなかった」という。つまり1960年代まで、ほとんどのキルティングジャケットがエディー・バウアー製だったということになる。
3.女性用アウトドアウエアやスキーウエアの開発にいち早く取り掛かる
妻スティーンは狩猟の名手だった。ワシントン州女子トラップシューティング選手権で初優勝(そのあと8連覇を達成)した1930年には、夫エディーが経営する「バウアーズ スポーツショップ」に初のレディス売り場を設ける。まだまだ女性のアウトドア人口が少なかった時代に先陣を切って参入した。とくにスキーウエアに関しては他のアウトドアブランドを見ても、随分と早い。1945年のカタログにはすでに女性専用スキージャケットも。
4.ワシントン州初のラブラドールレトリバー
1930年、エディーがカナダのブリティッシュコロンビア州へ訪れた際、若い優秀な狩猟犬を連れて帰ってきた。ブラッキーと名付けられた真っ黒な犬は、ワシントン州に持ち込まれた初めてのラブラドール・レトリバーとなった。心底この犬種に惚れ込んだエディーはなんと自らブリーダーとなって、ついにはワシントン州東部のネイティブ・アメリカン部族にちなんで「Wanapum(ワナパム)」という血統まで築き上げることに。
5.世界最高峰の頂を目指す冒険家たちとの挑戦
1953年に世界最高峰K2を目指す第三カラコラム遠征隊への装備品提供をきっかけに、日常的なフィールドを越えて、さらに過酷な環境下にも対応するエクスペディションモデルの開発をはじめたエディー・バウアー。当初はフィールドテストの他にも、従業員自らがダウン製スリーピングバッグを持って、大きな冷凍ロッカーに入り、氷点下40度のなか一晩過ごすような性能テストも行っていたという。
こうした画期的な試験の模様は、1950~60年代頃のカタログでも掲載されており、一般ユーザーからの信頼を獲得するうえでも、効果的なものだった。アメリカ人初のエベレスト登頂(1963年)や国際地球観測年(1957~58年)における北極と南極探検において平均気温氷点下70度のなか6カ月にも及ぶ作業を可能にするプロダクトを開発するまでに成長した。
飛行士の命を救うことそれが最大の宣伝となった
飛行士からの高い評価は瞬く間に全米規模へと知名度を拡げて、ブランドの成長を急激に加速させた。
1939
第二次世界大戦の開戦間もなく、アラスカに駐留していたアメリカ空軍のパイロットは上空数千メートルの厳しい寒さでも耐えられるよう、エディー・バウアーがブッシュパイロットのために製作した民間用のダウンフライトスーツを着用していた。
とくにこのアウトフィッターに惚れ込んだのが写真に写る飛行士ジョン・ゲッデス中尉。アリューシャン列島での作戦後、中尉が着ていたこのフライトスーツに着目した米空軍資材研究所のシェンク少佐はエディー・バウアーに本格的なフライトスーツの設計を依頼した。そうして1943年に生まれたのが[B-9パーカ]と[A-8フライトパンツ]である。
1945年のカタログには、アウトフィッターの他に、サスペンダー付きのダウンパンツ、ダウンブーツ、ファーキャップが存在したことがわかる。
ブッシュパイロットに向けた民間用のためバウアーダウンネームが付く。ダイヤモンドキルトに肘裏の補強布で切り替わるツートーン、ファー付きのフードが特徴。この個体には1941年製の棒タロンが付けられている。着丈はヒップが隠れるほどのハーフコート。
1943
米軍がこれを「Cold Weather Buoyancy Flight Suit(寒冷地用浮力フライトスーツ)」と呼んだのには理由がある。米空軍はふたつの条件を与えた。①氷点下70度の気温のなかで、3時間動かなくても飛行士を温かく保つこと。②飛行機が水上で撃墜されても、25ポンドの装備を背負った飛行士を24時間まで浮かせておけるだけの浮力があること。エディーは見事にそれをクリアした。
終戦後、数千人の飛行士から感謝の手紙がエディーのもとに届き、さらなるダウン製品を求めたという。こうしたリクエストに応えるかたちで1945年に初のカタログ冊子「エディー・バウアー・アラスカ・アウトフィッター」が発行され、メールオーダーも開始した。 参考商品(ノーウェイホームTEL047-778-2121)
表地はコットンサテン、フード裏にはムートンが配されたハーフ丈のダウンジャケット。操縦席で摩耗しやすい肩や肘には補強布が充てられる。ちなみにB-9の納入業者はエディーの他に、REED PRODUCTS INC、BEN GREENHOLTZ & CO.の2社。
B-9パーカとセットアップスーツになるダウンパンツ[A-8]。左の大腿部にはフラップポケット、膝にはアクションプリーツが入る。操縦席に座った状態でも出し入れが行い易いように膝下にはブラスジッパーが斜めに付けられた。2万6290円(ドラセナ吉祥寺本店TEL0422-26-9366)
※情報は取材当時のものです。現在取り扱っていない場合があります。
(出典/「2nd 2024年2月・3月合併号 Vol.202」)
Photo/Yoshika Amino Styling/Manabu Harada Text/Kazuki Ueda 撮影協力/ウエアハウス
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