記念すべき一人目は、「アウターリミッツ」代表取締役社長・勝 勇(すぐれ いさむ)氏が登場。
「1988年からのサラリーマン最後の3年間に物作りの根幹を一切合切任してもらい、勉強させてもらった会社の上司です。入社面接時には『火中の栗を拾うようなことになるけど良いのか?』と。この言葉は「リスクを背負う覚悟はあるのか?」と解釈して当時、営業部と縫製工場の間で板挟みになりながら沢山のことを学びました。あれから約40年経った今でも座右の銘として胸に刻んでいます」(本江さん)
いまも第一線で活躍するリビングレジェンド
本連載の記念すべき第一回目にご登場いただいたのは、あのナイジェル・ケーボンをはじめ、フィルソンやメルツ・ベー・シュヴァーネンなどの日本総代理店として知られるアウターリミッツの代表取締役社長・勝 勇(すぐれいさむ)さん。60年代からインポーターとしてキャリアをスタート、御年80を目前とした今日もなお第一線で活躍する勝さんに当時の私見や体験を伺う貴重な機会をいただいた。
「19歳の頃に貿易ブローカーの会社からキャリアをスタートしました。とはいえ、学生時分は商売人を目指すつもりはまったくなく、数字には弱いながらも英語は得意だったので高校・大学へ進むつもりでいたのですが、最愛の尊敬する兄が単独登山で遭難死してしまい、以後家計を支えるため中学卒業と同時に15歳から働き始めました。奨学金制度利用を勧められもしましたが借金をしたくなかったので製薬会社で働きながら兄がYMCAの書籍部に勤めていたというコネを辿って夜学で英語を猛勉強していったのです」
やがて製薬会社を退社、英語力を活かした貿易ブローカー勤務を経て独立して会社を創りたいと考え始めた頃、勝さんの実直な人柄と手腕を見初めた元取引先の人物から声がかかった。
「独立を考え始めた1978年頃、台東区柳橋の和商というネクタイ製造問屋のオーナーから『お前のやりたいことをやりたいようにやっていい』という条件を提示されて、社内に新しい部署まで立ち上げてくれることになりました。当時はバブルが始まったばかりの頃でしたし、若い世代の消費にも活気がありました。
とはいえ、1ドル=360円という固定相場制から変動相場制へと変わって間もない時期でもあり、為替が常に不安定でレートによっては輸入赤字になってしまうことも少なくなかった。そこで門外漢だったアパレル関連の商材の様々な背景や事情に目を向けた結果、当時の若者のインポート商品への憧れ気運に見事にハマった訳です。もちろん例外もありますが、私含めアパレルに関わる人は皆、人間臭く、数字の面に関してはあまり賢くない人が多い(笑)。
そんな人間臭さがそれまでとは比べ物にならないほど私には魅力的に映り、本腰を入れてインポートアパレルに関わっていく決心がつきました。まだ日本では知られていない海外ブランドでも飛ぶように売れた時代の気運もあり、誰にも紹介されていないものを探しながら世界中を飛び回りましたね」
世界に名を轟かす英国デザイナーの日本市場を開拓
勝さんは当初から純粋なメイド・イン・USAだけでなく、それらの言わば源流にあたる英国トラッドへと目を向け、アランセーターやウェールズのハンドインターシャニットなどの伝統服から、英国発の若きデザイナーズまで、未見のアイテムやブランドを数多く日本へと持ち込んだ。まだデビュー間もなかった、かのマーガレット・ハウエルを日本で初めて紹介したのも、実は勝さんだ。
「私はキャリア途中からこの世界に入っていったのでアメリカものに関しては遅れを取っていました。すでに他のインポーターさん各社によって市場が開拓されていましたから、他国に目を向ける必要があったのです。そんな中、当時トラディショナルの文脈で語られているアイテムの原産国を調べたところ、定番や名品とされているものは大抵ヨーロッパ発ということがわかり、ブローカー時代にも世話になった英国へと目を向けることに。当初、王室御用達ブランドなどは数多く日本市場で既に確立されていましたが私の興味は其処には全く無く、且つ、当時の私の調達可能資金では彼らが求めるバイイングミニマムには遠く及ばなかった。
さらに言えば、日本人のインポーターはあまり信用されていなかったんですね。ですから知名度こそないものの、確かな実力のある小さなファクトリーやデザイナーと二人三脚で日本という新たな市場を開拓してみようと。私を信じてくれる方たちだけと仕事をするようになっていき、今すぐには利益を生まないかもしれないけど熟練の職人を抱える工場や若く有能なデザイナーズブランドと一緒に、ゼロから取り組んだのがハンドインターシャニットのコーギーでありマーガレット・ハウエルでした」
以降、英国ファッションシーンと蜜月な間柄を築き上げた勝さんのビジネスは徐々に軌道に乗り、時はちょうどバブル真っ只中の80年代へ。80年に自身の名を冠したブランドを立ち上げたナイジェル・ケーボンとも1979年9月からの付き合いになる。
「マーガレットとのビジネスがようやくかたちになり始めた頃、パリで開催された当時世界最大のメンズ展示会セムでナイジェルと出会いました。ミリタリーガーメンツのコレクターでもあったナイジェルは当時からデザインはもちろん、ディレクション、販売まで全てをひとりでやりくりしている状態だったので、一緒に日本のマーケットにトライしてみないかと私から話を持ちかけ、マーガレット同様に二人三脚でゼロから始めることに。
欧州ではデザイナーはデザイン、ディレクターはディレクションといった当時から分業制が一般的で、全てナイジェル本人がこなすかたちは英国特有の土壌と環境だったと思います。さらに80年代に入ると、多くの海外ブランドが国内生産から低賃金な後進国生産へと舵を切り、終いにはブランドネームの利用権を売りに出すブランドも目立ち始めました。
デザイナーの名前を冠にしつつも彼らのクリエイティビティとは全く関係のない商品が市場に氾濫しました。我々も一部に関しては品質維持が可能な限り国内生産していましたが、デザインとアイテムに関する全権限はあくまでデザイナー本人。ところが自社経営という重圧からか次第にナイジェルの会社運営にもほころびが見え始め、話し合いを重ねた末、1997年に彼とのパートナーシップを一旦解消する決心をしたのです」
ナイジェルと再会。そして生まれた名作
そんな実情のなかでも、勝さんとナイジェルとのフレンドシップはその後も続いていた。80年代を象徴したDCブームが次第に忘れ去られ、空前の古着バブルやスニーカーブームが起こった90年代以降、日本のマーケットはさらなる成熟期を迎えた。モノの本質的な魅力やトラッド回帰する新世代によってシーンが再び活性化する中、ナイジェルたっての要請提案で彼らのパートナーシップは2003年に再び結ばれ、今日に至る。
「イギリスで彼からブランドを復興させる構想しているコレクションのプレゼンを受けました。ニュージーランド出身のエドモンド・ヒラリー卿らによるエベレスト初登頂成功メンバーをテーマとした重衣料中心のコレクションでしたが、彼の本気度合を感じられましたし、彼との出会いから25年以上費やしたものの、『金の心配はしなくていいから、また好きなことをやってみなよ』と構想中のコレクションにゴーサインを出したのです。
今となってはブランドのアイコンともなった[エベレスト パーカ]や[カメラマンジャケット]は、こうして世に出ることとなり、また彼と仕事をすることになりました。かつてナイジェルもそうであったように、今の現役世代には自分の本質的な信念の部分だけは見失わないでほしいと心から思います。小手先のテクニックや目先の利害に一喜一憂することなく、自身のこだわりをもっと貪欲に追求してほしいと思いますね」
本江MEMO
当時から「独学で英語を体得した叩き上げ」なる触れ込みで、業界でも広く知られた存在でした。とにかく好奇心の塊みたいな人でしたし、ファッションだけでなく常に新しいものに目を向けていましたね。確か、あの有名な『人生ゲーム』を日本で最初に紹介したのも勝さんの会社だったと記憶してます。部下として彼に付いていた時期もありますが、他の誰より怖いものの、こちらの言い分もしっかり聞いてくれる、思いやりのある人でした。いまだ衰えることなく、世界中を飛び回っていますし、年齢を感じさせない行動力にはただただ感服しています。
※情報は取材当時のものです。現在取り扱っていない場合があります。
Illustration/Adrian Hogan Text/Takehiro Hakusui
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