職業はポール・マッカートニー【ビートルズのことを考えない日は一日もなかった特別対談 VOL.10 永沼忠明】

  • 2025.05.02  2025.05.01

82年に六本木キャバンクラブのステージに立って以来、実に43年もの長きにわたり、ビートルズとポール・マッカートニーを歌ってきた、日本の、いや世界中のビートルズバンドのレジェンド、永沼忠明さんが今回のゲスト。ポールを歌わせ演奏させたら右に出る者はいない。私自身85年10月に六本木キャバンでステージを見てからというもの、その歌唱、演奏、ルックスに魅了され、憧れの存在だった永沼さんに40年越しの念願がかない、さしで話を聞くことが出来ました。キャバン時代、ポールに会ったときのこと、そして職業:ポール・マッカートニーの由来など、どれも濃く貴重な話ばかり、本連載第10回に相応しい大物の登場となりました。

82年に六本木キャバンで始まったビートルズを歌う人生

六本木キャバンクラブ86年のフリーペーパー

竹部:今日はこんなものを持ってきたんですよ。六本木キャバンが出していたフリーペーパーです。

永沼:すごいね、これ。いつのやつだろう。

竹部:86年春号です。

永沼:26歳の頃か。懐かしい。

竹部:昔、頻繁に六本木キャバンに行っていたんですよ。85年~88年くらいにかけて。ぼくが最初に永沼さんを見たのは85年10月。バイトしたお金で念願だった六本木キャバンに行ったときでした。当時18歳、ステージの合間にトイレに行ったら隣に永沼さんがいてびっくり。スタッフも客も同じトイレだったんですよね(笑)。

永沼:それは失礼しました(笑)。

竹部:ちょうど40年前ですよ。未成年だったのであまりドリンクも頼めずに、時間が許す限り観られるだけステージを見ていました。

永沼:入れてもらえたんですね。あの頃、未成年だからっていう理由で返された人も結構いて、いまだに「あの頃、未成年だから入れなかった」ってぼくに言ってくる人がいるんですよ。

竹部:そうだったんですか。IDチェックもなかったような。普通に入っていましたよ。お酒飲んだかな。ソフトドリンクだったかな。忘れました。とにかく演奏を見るのが目的だったので。あの頃から永沼さんはステージ映えしていて、すごくカッコよかった。以来憧れの存在でしたから、こうやって話ができるなんて光栄です。しかもこのコーナーは自分に関係の近い、友達や知り合いのビートルズファンに出てもらっているので、永沼さんを知り合いというのはおこがましい感じでして……。

永沼:そんなことはないですよ。これから知り合いでお願いします(笑)。

竹部:うれしいです。よろしくお願いします。今振り返っても六本木キャバンにはいろいろ思い出があって、忘れられないです。思い入れが強いですね。

永沼:ぼくも最初はお客として行っていましたよ。

竹部:そうだったんですね。キャバンができたのは81年。82年に入ったくらいからテレビや雑誌で紹介されるようになって、覚えているのは日本テレビでやった『ザ・ビートルズ! あなたが選ぶ不滅のベストヒット20』っていう生放送の電リク特番。その中でキャバンから中継があって、そこでレディバグの演奏シーンが流れたんです。

永沼:僕がレディバグに入ったのも82年です。

竹部:その番組で永沼さんを観たとばかり思っていたんですが、映像を見返してみたら出ていなかったです。勘違いでした。永沼さんが入られたのはその番組の直後だったんですかね。永沼さんはそもそもどういう経緯でレディバグに加入されたんですか。

永沼:同じ事務所の先輩だったんです。メンバーチェンジの際にビートルズが歌えるっていうことで呼ばれたんです。

竹部:その事務所というのはビートルズを演奏するバンドが所属していたということですか。それともただの音楽事務所っていうことですか。

永沼:ビートルズに特化していたわけではない、普通の音楽関係の事務所ですね。ビートルズ専門のライブハウスというコンセプトでキャバンができるっていうことで、結成されたバンドがレディバグでした。

竹部:その頃はチャック近藤さんがリーダーでベースを弾いていて、永沼さんはギターを弾いていましたよね。

永沼:でも特に役割分担があるわけでもなく、メンバーが歌える曲を歌うみたいな感じでした。ぼくはギター弾いたり、ベース弾いたり。言われるままなんでもやっていました。いちばん若かったので。

竹部:レディバクの前は何をやられていたんでしょうか。

永沼:ディスコで演奏したり、アイドルのバックバンドとか、そういうのをやっていました。

竹部:アイドル? 誰だろう。

永沼:専属バンドとしてツアーをまわったり、テレビ出演の際のバックとか、そういう細かい仕事をたくさんやっていました。

竹部:プロのミュージシャンになったのはどういうきっかけだったのでしょうか。

永沼:当時はディスコが人気でしたから、お店に生バンドが入っていて、そこで演奏していたんです。地方にもよく行きましたよ。演奏していたのは当時流行っていた曲。なんだろう。ビー・ジーズとか、そういうやつにスタンダードもやらされたりしていましたね。

竹部:チークタイム用の?

永沼:そういうのもあるし。

六本木キャバンクラブ時代の永沼さん。 島村洋子さん提供

人生を変えた『ジェームス・ポール・マッカートニー・ショー』

竹部:それがビートルズ専門のミュージシャンになっていくのだから人生わかりませんね。永沼さんは何年生まれでしたっけ?

永沼:60年生まれ。昭和35年です。だから今年65。40になったとき、まわりから「お前が40かよ」なんて言われたことがあったけど、65になるなんて自分でもびっくりしちゃいますよね(笑)。若い頃はまさかこんなに長い間、本格的にビートルズをやるとは思っていなかったですし。今でもビートルズを歌っていることにも驚いてしまうんですが、この仕事で子ども二人を大学出しましたからね。すごいですよね。ビートルズのおかげですよ。

竹部:本当に。ビートルズってすごいですね(笑)。永沼さんがすごいって話ですが。以前、『東京ビートルズ地図』という本で、カンケさんとの対談を進行したときににも聞いた話なのですが、永沼さんがビートルズにハマるきっかけになったのはテレビ番組の『ジェームス・ポール・マッカートニー・ショー』だったとか。73年3月にNHKで放送された。

永沼さんの人生を変えた『ジェームス・ポール・マッカートニー・ショー』

永沼;そうですね。あれは衝撃的でした。それまでもビートルズやポール・マッカートニーの存在は知っていたけど、自分から進んで聞くほどではなかったんです。

竹部:たまたま番組を観たということでしたが。

永沼:『ジェームス・ポール・マッカートニー・ショー』を見て、ポール・マッカートニーに憧れたんです。その頃はウイングスなので、そこからリアルタイムで聴きだしたんです。

竹部:どこにビビッときたんですか。

永沼;まず構成ですよね。オープニングがいきなりかっこよかったじゃないですか。視覚的に魅了されたのが大きかったですね。何かが芽生えちゃったという感覚。性的魅力に近いものでしたね。

竹部;最初の「ビッグ・バーン・ベッド」、いいですよね。

永沼;その通り。かっこいいんだよね。緞帳が開くとたくさんのテレビモニターが並ぶ前にバンドがいて、そこで演奏される曲が「ビッグ・バーン・ベッド」。メンバー紹介の字幕がまたよくてね。

竹部:プロフィール紹介なのに、ポールのところだけ人を食ったような感じでしゃれているんですよね。

永沼:EYES:Just Two、Comments:Good Eveningですからね。そこで神に捕まれましたよ。

竹部:島村洋子さんがよく言うやつ(笑)。でも当時ビデオがないから1回観ただけですよね。

永沼;それが、番組始まってすぐにカセットに録音しまして、それを何回も繰り返し聞きながら、映像を頭の中で思い出していました。

竹部:昭和の人は想像力、妄想力が豊かですよね。そこからウイングス、ビートルズを聞きはじめたんですか。

永沼;ええ、そのあとに聞いた『バンド・オン・ザ・ラン』の衝撃も大きかったですね。

竹部:『バンド・オン・ザ・ラン』の日本発売は74年2月です。

永沼:これも決定的でした。その日の弁当のおかずまで覚えてるくらい(笑)。ウイングスを聞いているとビートルズにも触れないわけにはいかないので、興味が出てきて友達からレコードを借りて聴くようになったという流れですね。でもあの頃はほかにもいろいろいいが曲ありましたからね。

竹部:デヴィッド・ボウイも好きだったとか。

永沼:他のアーティスティトやバンドの音楽も聞いているなかの基本がポール・マッカートニーっていう感じでした。

竹部;そこから演奏を始めるわけですか。

永沼;『ジェームス・ポール・マッカートニー・ショー』でポールがアコースティックギターで弾いていたじゃないですか。

竹部:「ミッシェル」とか「ブラックバード」とか。

永沼:それを見て「かっこいいな」と思ったので、それを真似したくて「ギターが弾きたい」って言ったら父親が買ってきてくれたんですけど、楽器屋に騙されたのかなんだか知らないけど、白いギターを買ってきて(笑)。

竹部:ギター=白みたいなイメージあったんじゃないですかね。

永沼:こんなんじゃないなと思って、自分で黒いペンキ塗ってポールが弾いていたエヴァリー・ブラザースみたいな感じにしましたよ(笑)。今はエヴァリー・ブラザースの本物を持っていますけど、最初はペンキで塗った黒いアコギでした。中1の終わりから中2のはじめにかけてくらいのことです。

竹部:すぐに弾けるようになりましたか。

永沼:そういうわけでもないですね。散々ですよ。でも、人前で弾くことが増えていって、場慣れしていったということですかね。

竹部:バンド組んで、学園祭に出たとかということですか。

永沼:そうですね。でもそのときは、ビートルズではなくて、みんなにウケる曲をやっていました。キャロルとかディープ・パープルとか。自分の趣味趣向よりも、みんなからやってくれと言われた曲や、ウケがいい曲をやった方がいいなと思っていました。

竹部:永沼さんを見ていて思うのは、ビートルズを歌っていてもそれだけじゃないキャパの広さを感じるんです。今の話を聞いてその理由がわかります。

永沼:そうですか。やっぱり、聞いてもらう人が楽しむことが一番なんで。

竹部:ディスコや歌謡曲、ハードロックなどを演奏してきた経験って生きていますか。

永沼:生きていますね。ぼくの演奏にはいろんな栄養が入っていると思います。そのエッセンスを、ビートルズの曲を再現するときに入れたらどうだろう?って、考えたりしますからね。アレンジを変えるとか、そういうことじゃなくて。

竹部:わかります。永沼さんはポールの完コピじゃないんですよ。ちゃんと永沼さんの個性やキャラが入っているんですよね。

永沼:おかげさまで長いですから(笑)。

竹部:すいません。プロを前に。

永沼:いえ、全然。なんでも言ってください(笑)。

竹部:でも、これは島村洋子さんが言っていることなんですが、永沼さんがいなかったら日本のビートルズバンド界隈は違っていただろうって。永沼さんがいてよかったって。

永沼:いいこと言いますね。もっと言ってください(笑)。

ポール・マッカートニー&ウイングス『バンド・オン・ザ・ラン』

初めて歌った曲は「アンド・アイ・ラブ・ハー」


竹部:
話を戻しますが、学生時代はベースも弾いていたんですか。

永沼:最初はギターでしたけど、ギターはうまいやつがたくさんいたので、ベースに回されたって言った方が正しいですね。

竹部:その後はどのように。高校卒業以降は。

永沼:映画の道に進みたくて、高校を卒業して東放学園という映像の専門学校に行ったんです。そこに通っているうちに、音楽好きの仲間がいて、一緒にバンド組むようになって、そうしたら「仕事があるよ」っていう話がきて。わけもわからず、誘われるままバンドの仕事をし出したんです。

竹部:いきなり仕事になってる。

永沼:1年の頃からやっていましたね。学校に行ったり行かなかったりで。

竹部:先ほどのアイドルのバックの話につながっていくわけですか。そのとき永沼さんの担当は。

永沼:ベースを弾いていました。その仕事のおかげで芸能関係に付き合いができたので、学校に行けなくても仕事ということで黙認してくれるようになって、卒業できたんです。運がよかったです(笑)。

竹部:映画や放送を目指していたのにそういう選択肢もなく、音楽の道に行っちゃったみたいな感じですか。

永沼:バンドの方に行っちゃいましたね。

竹部:そう考えると長いですね。

永沼:この仕事しかやってない。他の仕事できないですからね。困ったよね。これは(笑)。

86年の六本木キャバンクラブのメニュー

竹部:職業=ポール・マッカートニーですから(笑)。その話はまたあとで伺いますね。最初に入られたレディバグの思い出はありますか。

永沼:とにかくあの頃のキャバンは連日お客さんがすごい数来ていたから、大変なプレッシャーでした。高音出さなきゃいけないし。1日6ステージ。それを毎日。あれでだいぶ鍛えられました。

竹部:どういうお客さんが多かったですか。

永沼:サラリーマンですよね。リアルタイムでビートルズを聞いてきた世代が中心で、その人たちが後輩や先輩を連れてきたり。それでハマった人がさらに別の人を連れてくるみたいな感じでお客さんが増えていきました。大賑わいでしたよ。あの頃のお客さんはいまもライブに来てくれています。

竹部:その頃はお客さんから演奏についてマニアックな指摘とかあったんですか。

永沼:ぼくはまだ若くて、22か23。「君はリアルタイムでビートルズ知らないだろ?」みたいな感じで、上からものを言われることはしょっちゅうでした。

竹部:永沼さんにもそんな時代があったんですね。でも、ビートルズの武道館公演を見たことある世代が元気なときですよね。

永沼:バリバリ元気でね。

竹部:その頃のレパートリーは初期の曲が多かったそうですね。

永沼:有名どころとかは押さえて、たまにマニアックなのを入れたり。

竹部:「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」が人気だったそうですね。日本人はマイナー調の曲が好みなんでしょうか。「ホワイル・マイ・ギター~」はツウなイメージもありますし。あの頃やっていたレパートリーの中で思い出の曲とかありますか。

永沼:「アンド・アイ・ラブ・ハー」ですかね。最初にキャバンで歌った曲でした。あと、「アイル・フォロー・ザ・サン」。そういう曲がウケるのが意外でしたけどね。

竹部:やっぱりポールなんですね。歌う曲をバンド内で振り分けるみたいなものはあったんですか。

永沼:各々が覚えている曲を歌うと言う感じ。とにかく、お客さんのリクエストに応えなければならないので。

竹部:ぼくもよくリクエストしていました。

永沼:どんな曲を?

竹部:「ユア・マザー・シュッド・ノウ」「アイル・ビー・バック」「グラス・オニオン」とか。リクエストに応えてくれたときは感動でしたよ。

永沼:そうでしたか。とにかくたくさんリクエストが来ていましたからね。リクエストが来たら、片っ端からやってくことしか考えてなかったです。

85年に出演したTBSドラマ『OH!わが友よ』

竹部:あの頃ってまだジョンが死んで間もないわけじゃないですか。ビートルズシーン自体が沈んだような感じがあったんですが、キャバンだけは特別で、連日盛り上がっていたっていう。

永沼:その影響もあって盛り上がっていたところはありましたね。一時は入れ替え制だったんですよ。

竹部:満員時はそうだったんですね。ちょっと話が前後しちゃうんですけど、ジョンの死はどのように知りましたか。

永沼:バンドのリハーサル中だったんですが、リッキーさんからの電話で知りました。当時、リッキーさんも同じ事務所だったんです。リッキーさんから「ジョンが撃たれた」って知らされて。竹部さんはどこで聞きました?

竹部:中学校から家に帰って、母親から「あなたの好きなジョンが死んだってよ」って。『3時にあいましょう』で速報が入ったらしく。信じられなくて、すぐにファンクラブに電話したんですよ。入会していたコンプリート・ビートルズ・ファンクラブに電話で事実確認してショックを受けると言う……。

永沼:よく覚えているでしょ。そのときの状況とかね。ビートルズファンはみんな、そのときの状況を細かく覚えているんですよ。

竹部:そのあと仕事にならなかったんじゃないですか。

永沼:まだビートルズを仕事にしていなかったんで、そこまでじゃなかったけど、ショックはショックでしたね。あのとき味噌汁飲んでたなとか、細かく覚えているんですよ。

竹部:ですよね。自分の人生の中で1980年12月9日はいちばん重要な日かもしれません。そういえば、85年にTBSでビートルズをモチーフにしたドラマがあったのって覚えていますか。

永沼:覚えてますよ。

竹部:『OH!わが友よ』というドラマ。劇中にキャバンが出てきましたよね。戦争経験のあるおじいさんが孫になりすまして女子高生と文通する話で、その女子高生がビートルズファンという設定で。それを演じていたのが有森也実。おじいさんの孫が宮川一朗太。「イエロー・サブマリン」を聞くとそのおじいちゃんが乗っていた潜水艦を思い出すと言う(笑)。

永沼:我々も出ていたんですよ。

竹部:確か演奏シーンがありましたよね。

永沼:ありました。ぼく、映画学校に通っていたじゃないですか。だからドラマの撮影現場を生で見られて感激しましたよ。撮影クルーがキャバンに来てセッティングして、それから俳優さんも来て、カメラリハーサルがあって、本番みたいな流れを目の前で見ていましたね。緊迫感があって。そういう現場が見られてすごく良かったです。

竹部:あのドラマは85年の秋の放送で、僕が最初にキャバンはちょうどその頃でした。

永沼:そうだったんですね。

竹部:この頃の永沼さんは本当にキラキラしていましたよね。本人は目立つつもりはないんだけど、隠しきれないスター性と言いますか(笑)。持って生まれたものがあるんで、そこは隠せない。キャバンに通っていた時期は永沼さんばかり見ていました。

永沼:今も見てください(笑)!

竹部:また伺わせていただきますね。でも当時はプレゼントとかも多かったんじゃないないですか。

永沼:結構もらっていましたね。だから、当時を知っている人間に言わせると「最近は贈り物が少なくなったね」って(笑)。

竹部:そうなんですね(笑)。その頃のキャバンは防衛庁の前、今のミッドタウンの向かいあたりにあって、そのあと、ハードロックカフェのほうに移転しますよね。その前後あたりで永沼さんはレディバグを辞めて新しい自分のバンドを結成して、最初はジュニアーズ。そしてウィッシング。自分のバンドを作りたかったということでしょうか。

永沼:それもありますね。自分なりにやりたいことがありましたから。新しいキャバンにはトラとして出ていました。メインはパロッツだったので、パロッツが休みのときに。ウィッシングが出ていたんです。

竹部:その少しあとですかね、屋上ライブっていうのがありましたよね。

永沼:ありましたよ。ちょうどキャバン10周年のイベントの一環でやったんです。だから91年ですね。新しいキャバンのビルのバルコニーみたいなところでやりました。あのビルにケントスグループの会社があったんですよ。

竹部:そうだったんですね。キャバンを運営していたケントス。あれ、本当に屋上で爆音を出していますよね。その映像をNHKのビートルズ特番番組で見た記憶があります。

永沼:シャレで警官役を入れていたんですけど、本当の警官が来ちゃって、演奏を止められた(笑)。

竹部:六本木のド真ん中で!本当にルーフトップ・セッションみたいじゃないですか。

永沼:そこは放送できなかったですけどね(笑)。

竹部:今じゃ大変なことになっていますね。ルーフトップ・セッションをそのままやろうと思ったんですか。

永沼:そうです。よくやりましたよね(笑)。

竹部:事前に映画『レット・イット・ビー』は見たんですか。

永沼:あの頃ってまだ映像とか簡単に見られなかったですよね。

竹部:そうですね。『レット・イット・ビー』は、テレビで放送したものを録画していれば見られましたが、基本海賊盤ですよね。あとフィルムコンサート。

永沼:ビートルズの映画は名画座観ましたね。『ハード・デイズ・ナイト』とか。でもこのときに参考にしたのは音だけだったと思います。

東京ドームの楽屋で会った神様、ポール・マッカートニー

東京ビートルズファンクラブ会報VOL.1の裏表紙より

竹部:ウィッシングのルーフトップ・セッションが放送された特番は、最近の若者の間でビートルズが盛り上がっている、みたいな内容だったと思います。そのきっかけが90年のポール来日だった気がするんですが、90年の来日公演はいかがでしたか。

永沼:あのとき、ポールのバンドのメンバーやスタッフがキャバンに遊びに来たんですよ。ギターのロビー・マッキントッシュとドラムのクリス・ウェッテンがステージに上がって共演もしました。それでポールの広報をやっていたジェフ・ベイカーという人から「ポールを紹介するからドームに来てくれ」って言われて、バンドのメンバーとキャバンのスタッフで東京ドーム行ったんですよ。挨拶してきましたよ。神に。すいません(笑)。

竹部:そうでした。神に会われているんですよね! 東京ビートルズファンクラブの会報で読んだ記憶あります。この会報を読むと、本当はポールもキャバンに来たかったとか。でも警備の問題で断念と書いてありました。もし来ていたらすごいことになっていましたね。ジェフがポールに「六本木にすごいやつがいた」ってレポートしたんですかね。

永沼:すごいかどうかは知らないけど、「なんかやってるやつがいますよ。旦那」みたいな感じで話したんでしょうね。「じゃあ、そいつ呼んで来い」みたいな(笑)。つながるもんだよね。

竹部:直接会うことができたんですよね。素晴らしい。

永沼:握手して、サインももらったけど、そのときのことは全然覚えてないんですよ。でもポールは結構遊んでくれました。ドームの舞台袖まで連れてってくれたし。機嫌がよかったのかな。

竹部:すごい話ですね。90年のポールって全然おじいちゃん感ないじゃないですか。

永沼:現役バリバリ。ビートルズ感もなかったですよ。元ビートルズって感じがしなかった。今のほうが、元ビートルズって感じがする。まだ若かったですもんね。

竹部:47歳ですよ。40代。若い。90年のポールのライブってどう思いましたか。

永沼:あのとき、ドームで2回観ているんですけど、最初は結構感激して、涙が出てくるくらいだったんですね。初めて見るポールですから。2回目は今言った、ポールと面会した後の公演を見たんです。そのときポールは楽屋ですごく酒を飲でいて……。たばこも吸っていたかな。

竹部:当時はそうだったんですね。

永沼:大丈夫かなと思ったんですけど、その日のステージは、うーんって感じだった(笑)。

竹部:全然気が付かなかったです。ぼくは90年の来日は全公演見ているんですけど、毎回感動していましたよ。そんな裏話があったんですね。

永沼:そうそう。

竹部:その頃、永沼さんがやっていたバンドはジュニアーズだったんですよね。92年に出た『ビートルズとは何か?』という本にウィッシングが紹介されているんですが、このメンバーは不動ですよね。ここにキーボードの方が加わって今の形になっている。

永沼:そうですね。全員いますね。そうです。これにキーボードが入ったのが今のウィッシングです。

竹部:この写真を見るとさすがに若いですね。この頃はポール役専任ってことですよね。

永沼:そういうポジションになっちゃいますよね。

竹部:そこは覚悟を決めた感じだったんですか。

永沼:今までやったことが1日も長く続けばいいなと思ってはいましたけど、そしたらまたいろんなところで結構な期待をかけられて……。それに応えるためにどうしたらいいのか考えて、どんどん強くなっていきました。

竹部:プレッシャーを味方にみたいな。そういえば、マディソン・スクエア・ガーデンでライブを行った。それはいつですか。

永沼:2007年だったかな。この頃、シルバービーツってバンドにヘルプで入ってやっていたんです。そうしたら、海外から来ていたキラーズというバンドがぼくらを見たらしく、彼らから「一緒にツアーを回らないか」って誘われたんです。

竹部:人気バンドじゃないですか。

永沼:全然知らなかったんですけど(笑)。ツアーって言ったら長期でいかなければならなくなるわけじゃないですか。ちょっとできないかなと思ったけど、やらなきゃ後悔するなと考え直して。

竹部:1ヶ月ぐらい回ったんですか。

永沼:そうですね。10本ぐらい、北米を下から上まで行きました。

竹部:マジソンはそのひとつだったということですよね。これは感動だったんじゃないですか。ポールもジョンもジョージもやってる会場ですから。

永沼:感動はありましたよ。楽屋に入ってもでもここはマッカートニーが使っていたところかなと思ったり。このトイレもそうかなと思ったり(笑)。

竹部:それは気になる(笑)。お客さんの反応はどうでしたか。

永沼:ウケましたね。そのあと、マジソンよりも大きいボルティモアの競馬場みたいなところでもやりました。あそこは5万人くらいはいっていたんじゃないかな。

竹部:それはすごい。あとは本場のイギリスでもやっているわけですよね。

永沼:それこそリヴァプールのキャバンでやりましたよ。

竹部:ビートルウィークですよね。ポールもやったキャバンですね。

永沼:そうそう、あそこは狭いし暑いし。でも現地の反応はやっぱりいいですね。向こうは音楽を聴く文化がしっかりしているから。世界中からビートルズファンが来ていたし。

肩書、職業=ポール・マッカートニー誕生エピソード

竹部:かいくぐってきた修羅場の数が違いますよね。本当に貴重な話ばかり。職業=ポール・マッカートニーに偽りなし。ここでその話を伺いたいのですが。『東京ビートルズ地図』での取材でも聞いていますが、改めて職業=ポール・マッカートニーの話を聞きたいのですが。確か役所での話でしたよね。

永沼:そうです。税務署に提出する書類に職業欄があって、ぼくはミュージシャンって書いていたんですが、そこを突っ込まれたんですね。「どういった音楽をやっているんですか。何を弾いているんですか。何を歌っているんですか」って細かく聴いてくるので「ビートルズです」と言ったら「ビートルズで何を?」とさらに聞かれたので「ポール・マッカートニーです」と言ったら職業=ポール・マッカートニーと書かれてしまった(笑)。

竹部:最高ですよ(笑)、その話。

永沼:税務署の人がそういうんだからいいだろうと。そうやって書かなきゃいけないのかなって思ったんですよ。そうしたら翌年、それが印刷されてきた。職業:ポール・マッカートニーって書かれてた(笑)。

竹部:ネタみたいですね(笑)。

永沼:最初は恥ずかしくて。でもそれを人に話したら「それ面白いから、絶対にこれからは職業:ポール・マッカートニーにした方がいい」って言われて。

竹部:そんな人はほかにいないですよ。世界中に一人じゃないですかね。半分ギャグだけど、半分マジっぽい、微妙な感じがいいですよ。ポップな感じもして。

永沼:それを笑い話として話していたら広まっていったんです。

竹部:いい話ですよね。職業:ポール・マッカートニーということで、いまでもポールの歌い方、演奏の仕方について研究しているのでしょうか。

永沼:毎日聞いていても知らなかったっていうことが出てくる。こういうことをやっているんだ、こういう音を出しているんだという発見がありますね。勉強になりますよ。最近、COMMA-DADAの小松さんとの話したんだけど、「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」で今まで僕が歌っていたポールのハーモニーは、実はジョンが歌っていたという。ちゃんと聞いてみると逆なんですよ。そういうことがいまだにあるんです。

竹部;そういうのはありますよね。そもそもジョンとポールは微妙にというか絶妙にハーモニーの上と下が入れ替わっていたりしますからね。「恋におちたら」とか。あとは、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の途中の「アー」はジョンなのかポールなのかとか、「パーティーはそのままに」の下は誰が歌っているのかとか。いまだに問題を提起してきます。

永沼:ビートルズには音楽の要素が全部入っていますよね。

竹部:永沼さんを見ていると、歌い方も、楽器の弾き方も、歌うときのしぐさもポールに見えてくるときがあります。そもそも顔も似ているし。

永沼:昔はよくギャグで「300万かけてます」って言っていましたけどね(笑)。これは生んでくれた親に感謝です。

竹部:とくに76年のウイングスの『オーヴァー・アメリカ』の頃のポールを思い起こさせるんです。

永沼:そこは譲れないかもしれないですね。

竹部:やはりそうですよね。ポールはキャリアが長いのでいろいろな時期がありますけど、76年がいちばんカッコいい。

永沼:76年のポールは特別ですよね。演奏していてもここがすごく盛り上がるんです。そうなんだよね。ポールはこの時期が最高なんだよね。

竹部:永沼さんもリッケンバッカーをもつ姿がいちばん絵になります。

永沼:ミュージシャンなのでいろんな楽器を弾いてみたいと思うけど、今はリッケンバッカーだけですね。リッケンバッカーは癖のある楽器で、弾きにくいんですよ。重たいし、フレットの幅が広いし。でもぼくが使っているリッケンバッカーは70年代に作られたやつで比較的弾きやすいんですけど。

竹部:近年のポールはバイオリンベースだけになっていますが、あれは単純に軽いからですよね。

永沼:バイオリンも弾くんですけど、やっぱり軽い。違いますね、ぼくにはリッケンバッカーのほうが馴染みますね。

竹部:そういえば80年のウイングス来日の思い出はありますか。

永沼:当然チケットを買っていましたよ。武道館で見たかったなと思ったら、その後武道館でやったけど、ウイングスが見たかったですね。武道館で。あのときは返す返すも残念でしたよ。セトリは『カンボジア難民コンサート』の感じだったんですよね。

竹部:1曲目は「ガット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」だったんですよね。

永沼:本当は「マル・オブ・キンタイヤ」を東京パイプバンドとやるはずだったらしいんですよ。そのバンドにいた人の息子さんと一緒にやったことがあって、そんな話をしていました。

竹部:そんなことが予定されていたんですね。知りませんでした。それにしても、ビートルズだけといいつつもソロも入れればたくさん曲があるから演奏するのも大変ですよね。いつもどういう風にセットリストを決めているんですか。

永沼:大変ですが、もう全部レパートリーに入れちゃっているんで、あまり区別しないですね。一時期出ていたヒットスタジオ東京の専務の方の要望がすごかったんです。ビートルズマニアの方で。そこでもまた鍛えられましたね。なんで、こんなことやんなきゃいけないんだろうと思ったこともあるけど、バンドのみんなが楽しんで、お客さんも喜んでいるから、これでいいんじゃないかなと思って。

竹部:前回お会いしたのは、ヒットスタジオ東京でした。リハのあと、本番ステージの前にCOMMA-DADAの皆さんにインタビューしたんです、

永沼:そうでしたね。

死ぬまでこの仕事するのが目標です

竹部:今はどういうスタンスで活動されているんでしょうか。

永沼:小松さんとCOMMA-DADAをやるようになってからは、日本中回っていますよ。結構呼ばれるんで。あとはウイッシングで月一のペースで六本木のアビーロードに出演していまして、おかげさまで職業:ポール・マッカートニーを続けられています。

竹部:寅さんみたいですね。

永沼:まさにそんな感じで、呼ばれれば行く。スケジュールが空いていれば、呼ばれたところで歌うみたいな。それで食いつなげるぐらいのことはできています。

竹部:会場が大きかろうが小さかろうが関係ない。

永沼:そうですね。ライブハウスだろうが居酒屋だろうが。デパートの英国フェアで歌ったこともありますから。

竹部:前回のゲスト、中村こよりさんは永沼さんのライブをレストランで観たと言ってました。それだけステージをこなしている永沼さんですが、のどのケアってどうなんですか。

永沼:つぶれなくなりましたね。鍛えられて強くなった。よくポリープとか言うじゃないですか。それどころじゃない。それどころじゃないやつもいるんだぞって言いたいです(笑)。今でも高い声でシャウトしまくりで。お客さんに喜んでもらえるんであれば、声が出るうちは高い声で歌います。

竹部:ファンは感動ですね。現在65歳ということですが、体力的にはどうなんですか。

永沼:落ちてきてはいますが、ジムに通ったりするようになって、ちょっと復活してきた。六本木キャバン時代に比べればなんでもないです。あれほどきつかったことはないですからね。7時半、8時40分、9時50分、11時、1時半からの6ステージで、終わって夜中の2時。今では完全寝ている時間ですから。

竹部:そんな夜中までやっていたんでしたっけ。ステージ終わって、片付けや着替えとかしたら3時か4時になりますよね。帰りはタクシーですか。

永沼:あの頃の六本木はタクシーも捕まらないし。チャリンコで帰っていました。

竹部:そっか、全盛期の六本木。六本木には思い出が多いですね。僕もオリコンという会社に勤めていた時代は六本木だったんです。

永沼:どのあたりですか。

竹部:WAVEの向かいにマクドナルドがあって、その裏側の路地にあったんですよ。だからその道を真っすぐ行くと防衛庁なので。

永沼:キャバンじゃないですか。まさか防衛庁がなくなるとは思わなかったけど。六本木も変わっちゃいましたよね。お店もなくなっちゃった。

竹部:そうですね。最後に、今後の目標はどうなんでしょうか。

永沼:死ぬまでこの仕事するのが目標っていいますか、職業:ポール・マッカートニーを1日も長く続けることですね。

竹部:ポールも82で元気なのでまだまだ。

永沼:いやぼくのほうが先に行くかもしれない(笑)。そうしたら、ポールにぼくのトリビュートやってもらわないと。59のときに脳梗塞をやったんですよ。

竹部:そうでした。

永沼:ステージ中に倒れて、病院に搬送されずに家に帰って、たまたまうちの近所に脳外科のクリニックがあったんで、そこで治療してもらったんです。全く手が動かなくなって、声も出なくなって。2ヶ月ぐらいリハビリをしたあとにジムに通って半年ぐらいで回復した。

竹部:それはつらい時期でした。歌えるようになって本当に良かったです。

永沼:でも思ったように手が動かないので、結構厳しいんですよ。脳梗塞になる前、手が痛くて、接骨院に行ったり、針を打ったりしていたんです。それなのに、脳だったっていうのはね……。

竹部:そうだったんですね。いまぼく58なんですよ。

永沼:60前後は気を付けた方がいいですよ。

竹部:永沼さんにはずっと、職業:ポール・マッカートニーでいてほしいのであまり無理しないでください。そういえば島村さんが「イギリス大使館は永沼さんに敬意を表するべき」と言っていましたよ(笑)。イギリス文化を広めている功績として。ぼくも勲章を授与してほしいと思います。

永沼:それはいいね。最後に褒められたいですね(笑)。

竹部:初めて六本木キャバンで永沼さんを見てから40年。今日はそれ以来の念願がかなってこうして話ができて本当にうれしかったです。

永沼:また声かけてください。なんでも聞いてください。またライブ見に来てくださいね。

竹部:伺わせていただきます。今日はありがとうございました。

LiLiCo

昭和45年女

人生を自分から楽しくするプロフェッショナル

LiLiCo

松島親方

CLUTCH Magazine, Lightning, 2nd(セカンド)

買い物番長

松島親方

モヒカン小川

Lightning, CLUTCH Magazine

革ジャンの伝道師

モヒカン小川

ランボルギーニ三浦

Lightning, CLUTCH Magazine

ヴィンテージ古着の目利き

ランボルギーニ三浦

ラーメン小池

Lightning

アメリカンカルチャー仕事人

ラーメン小池

アオイちゃん

Lightning, CLUTCH Magazine

チーママ系エディター

アオイちゃん

パピー高野

2nd(セカンド)

断然革靴派

パピー高野

なまため

2nd(セカンド)

I LOVE クラシックアウトドア

なまため

みなみ188

2nd(セカンド)

ヤングTRADマン

みなみ188

村上タクタ

ThunderVolt

おせっかいデジタル案内人

村上タクタ

竹部吉晃

昭和40年男, 昭和45年女

ビートルデイズな編集長

竹部吉晃

清水茂樹

趣味の文具箱

編集長兼文具バカ

清水茂樹

中川原 勝也

Dig-it

民俗と地域文化の案内人

中川原 勝也

金丸公貴

昭和50年男

スタンダードな昭和49年男

金丸公貴

岡部隆志

英国在住ファッション特派員

岡部隆志

おすぎ村

2nd(セカンド), Lightning, CLUTCH Magazine

ブランドディレクター

おすぎ村

2nd 編集部

2nd(セカンド)

休日服を楽しむためのマガジン

2nd 編集部

CLUTCH Magazine 編集部

CLUTCH Magazine

世界基準のカルチャーマガジン

CLUTCH Magazine 編集部

趣味の文具箱 編集部

趣味の文具箱

文房具の魅力を伝える季刊誌

趣味の文具箱 編集部

タンデムスタイル編集部

Dig-it

初心者にも優しいバイクの指南書

タンデムスタイル編集部

昭和40年男 編集部

昭和40年男

1965年生まれの男たちのバイブル

昭和40年男 編集部

昭和50年男 編集部

昭和50年男

昭和50年生まれの男性向け年齢限定マガジン

昭和50年男 編集部

CLUB HARLEY 編集部

Dig-it, CLUB HARLEY

ハーレー好きのためのマガジン

CLUB HARLEY 編集部