人生最大のイベントだったポール来日公演

言うまでもなくポールの来日公演は、22歳だったわたしにとって人生最大のイベントであった。7公演すべて見て、64年のビートルマニアのようにポールを追いかけたい。それに人生のすべてをかけていた。その意気込みを遂行するためには3月前半の約2週間を、万全を期して挑まねばならない。つまり健康でいなければならない。
年末年始はケガをせず、風邪など引かぬようにと極力外出を控えようと心がけていたのだが、KKくんからの熱心な誘いを断れず、元日から一泊二日のスキー旅行に出かけることになった。大晦日のサザンのカウントダウンコンサートに行けなかった腹いせもあった。加えて、この頃は映画『私をスキーに連れてって』の影響で、まさに猫も杓子もという感じで若者がスキーに興じていたという背景もある。頭の中はポール一色だったに違いないのだが、映画のような世界を味わえるのかもしれないという、よこしまな期待があったのかもしれない。とりあえず、ビートルズ友達でもあるKKくん幹事のもと、Sくんを加えた男3人で日光のスキー場に行った。
もちろん、現実はそうはうまくいくはずもなく、ゲレンデに出ても転んでばかり。体のあちこちを地面に叩きつけたのでそこら中が痛く、そして寒い。上達は見込めそうもないのでスキーをあきらめ、でもせっかく映画『ヘルプ!』をイメージして黒っぽいウェアを新調したのだからと、脳内で「涙の乗車券」を流しながら『ヘルプ!』ごっこを始めた。スキーに来てもビートルズ。最初で最後のスキーはなにひとついい思い出を残すこともなく終わった。
現金21万円を持参し整理券をチケットに

話を1月7日に戻す。早朝5時頃に江戸川を出発(KKくんは千葉船橋に住んでいたので家を出たのは4時台)し、6時前に表参道に着いたあと、キョードー東京前にまだ誰もいないのを確認して、青山デニーズで時間を潰すことにした。
青山デニーズは年末の整理券獲得のときに暖をとったファミレスだが、ここは単なるファミレスにあらず。当時、若者の間で人気のトレンドスポットのひとつであった。青山墓地の近くという立地、白を基調としたアメリカンテイストの外観(テラス席もあった)がおしゃれとされて、青デニの愛称で親しまれていた。遠方から訪れる人も多かったということだが、どこでその情報を入手したのか、運転免許を取ったばかりのわたしもドライブがてら、わざわざ青デニまで出かけていた。そしてポールのチケット入手では二度もお世話になった。
日が昇り、冬の朝のひんやりとした空気からあたたかな陽光に変わる頃、キョードー前に戻ってみると少しずつ人が集まりはじめ、あたりはファンの濃密な空気と異様な緊張感に満ちていく。やがてスタッフの指示で番号順に列を作らされ、10時ちょうどにいよいよ整理券とチケットの交換が始まった。
このときのレギュレーションでは、1枚の整理券で10枚までのチケット購入が可能とされていた。わたしは3枚の整理券をもっていたので、せっかくだからと自分用の7公演分をはじめ、年末に徹夜してくれたバンド仲間のM、中学のときからのビートルズ友達(今回車を出してくれた)KKくん、家族の分のほか、きっと見たいという人がいるだろうと想定のうえ30枚購入しようと考えた。S席1枚7000円で、×30だから現金にして21万円。この日のために貯めた全財産を持参した。
年末の苦労がすべて吹き飛んだ一瞬

番号が早かったためそれほど時間がかからずに自分たちの順番となり、わたしとKKくんがそれぞれ整理券1枚で20枚のチケットを購入。さらにわたしはもう一度後列に並び直して残り1枚の整理券で10枚のチケットと交換した。
長いことかけて貯めた21万もの大金が目の前で事務的にコンサートのチケットという紙切れに変わっていくショックも少しあったが、それよりも、それを手にしたときに喜びは、それまで感じたことがないほど大きいもので、ライブはこれからというのに、ひとつの達成感を覚えた。
チケットに記されている座席を確認すると、すべてアリーナのAブロックの7。それが良い席なのかを確認する術はないが、とりあえず、アリーナだったことに安堵。年末の徹夜の苦労がすべて吹き飛んだように思え、ふと胸をなでおろすのであった。