復活祭で観た『ハード・デイズ・ナイト』

大須賀:自分の加齢もあるけど、音楽の変化のスピードや幅も当時はすごかったんだよね。だからビートルズの音への違和感は強かった。しかも『ラバー・ソウル』と『ヘルプ!』はなんか地味で。でも買ったからには好きにならなきゃ、みたいな気持ちで聴いていたら、あるとき、急にスイッチが入るんだよね。すごくいいって。あれ、なんなんだろう。
竹部:同じく。最初は我慢が必要なんですよね。
大須賀:で、ドイツ盤には解説がないって気づくの。どうやら日本盤とは違うんだみたいなことがわかるわけ。それで、次からは日本盤を買おうって思って、1枚ずつ国旗帯の日本盤を集めだす。
竹部:情報がないから自分で体得していくしかないんだよね。
大須賀:そう。そんなわけで『ヘルプ!』と『ラバー・ソウル』の日本盤は大人になるまで持ってなかったけど、次は日本盤で『プリーズ・プリーズ・ミー』を買った。そしたら、ブックレットが豪華でびっくり。
竹部:輸入盤はなにも入っていなかったからね。
大須賀:ラッキーって思って。『ウィズ・ザ・ビートルズ』もカラーのブックレットが入っているでしょ。レコードって、ああいうおまけが入っているのが楽しいよね。
竹部:初期2枚はそうなんだよね。
大須賀:『プリーズ・プリーズ・ミー』は、録音はやかましいけど、シンプルなロックンロールが多いから、子どもにはわかりやすいじゃないですか。なので、すぐに気に入った。そのあとは1枚ずつ買っていったんだけど、順番は明確に理解してなかったから適当に。その間に『ゴールデン・ビートルズ』『シルバー・ビートルズ』を買っちゃったりした。
竹部:そういうレコードにも手を出していたんだ?
大須賀:よくわかってないから、間違えてね。『ゴールデン・ビートルズ』はインタビューアルバムで『シルバー・ビートルズ』はスタークラブのライブ。ジャケが金とか銀で豪華なのに安いと思って。いざ家で聴いてみたら「なんだこれ?」って。
竹部:80年代はスタークラブ音源やインタビュー音源が手を変え品を変えいろいろ出ていたよね。個人的にはスタークラブ音源っていまひとつ好きになれなかった。曲が増えたとか、音が良くなったとか、リリースのたびに改訂されて、パンクの原型があるとか言われて評価されていたけど。
大須賀:さすがに音が悪くて。でもこの間聞いてみたら思ったよりはひどくなかった。
竹部:レコードもブートも一応あるけど、あまり聞かないかな。自分はスタークラブ音源を好きになるときが来るんだろうかって思う。よほどAIで音質が向上しない限り愛聴盤になるのは難しいかも。77年に出た『ハリウッドボウル』は大好きなのにね。この間、藤本さんがやった『ハリウッドボウル』を大音響で聞くっていうイベントがすごくよかったんだ。終わったあとに藤本さんが「次は『スタークラブ』で」って言っていたんだけど、それには同意できなかった(笑)。
大須賀:『ハリウッドボウル』はいいよね。
竹部:で、そんな非公式盤を挟みながらも、ビートルズのレコード収集は完走するわけですよね。
大須賀:オリジナルアルバムの13枚は1年ぐらいで集めたと思う。いちばん好きだったのは『サージェント・ペパーズ』。2つのスピーカーの真ん中に座って、音場を意識しながら聞いたんだけど、スピーカーから広がる音の空間に自分しかいなくなるみたいな感覚を知って、鳥肌が立った。
竹部:意識が高いよね。それからはどんなビートルズライフだったの?
大須賀:高校に入学して仲良くなった大武という友達がビートルズファンで、シネクラブに入っていたから、家に遊びに行くと会報とか通販で買ったというカセットがあって。
竹部:海賊盤音源をコピーしたカセットね。
大須賀:そこで聞いたのが「ロイヤル・バラエティ・ショー」。あのジョンのボーカルがかっこよくてね。
竹部:宝石ジャラジャラの。
大須賀:二人でビートルズ復活祭にも行ったよ。九段会館に。
竹部:そうなの? おれもよく行っていたよ。そこで会っていたのかもね。
大須賀:映画『ハード・デイズ・ナイト』と『ヘルプ!』は復活祭で観た。あの頃はとにかく動くビートルズが貴重だったじゃない。嬉しかったよね。
竹部:自分が最初に観た『ハード・デイズ・ナイト』は字幕なしだったかね。
大須賀:そのあとに『ハード・デイズ・ナイト』のVHSを1万4800円出して買ったの。
竹部:ベストロンから出たやつ。よく買ったね。
大須賀:どうしても観たくて。それくらい最初に見た『ハード・デイズ・ナイト』がかっこよかったから。あとは自分もあんな風になりたいって思ったよね。ロックバンドの、メンバーのああいう関係性に憧れたんだ。たとえば普通にお茶を飲んで話をしたり、バカなことをやっているんだけど、いざ楽器を持つとちゃんと音楽が作れる、みたいな関係性がカッコいいなと思って。それで自分もバンドをやりたくなったからね。ビートルズの映像は『ハード・デイズ・ナイト』に尽きるの。

竹部:自分も『ハード・デイズ・ナイト』での理屈なしのカッコよさが決定打だったよ。
大須賀:あまりに観過ぎたのでテープが切れちゃって。捨てないでとっておけばよかったと思うけど。92年くらいに出たやつも買ったよ。最初に「僕が泣く」が入っているやつ。
竹部:ビデオアーツから出たやつだ。『メイキング・オブ・ハード・デイズ・ナイト』と一緒に。それの発売記念試写会に行ったよ。その頃って、渋谷系全盛で、ちょうど『ザ・ナック』がリバイバル上映されて再評価されたあたりだったよね。
大須賀:当時、小西康陽さんが、「僕はビートルズが好きというよりもリチャード・レスターのビートルズが好き」というようなことを言っていて、むちゃくちゃわかると思って同意した。でも『ヘルプ!』はちょっとだれるんだよね。
竹部:そうなの。最初はいいんだけど、バハマに行くあたりから、集中力が切れちゃう。
大須賀:「アナザー・ガール」のシーンはすごくいいんだけどね。というか、『ヘルプ!』は全般的に曲のシーンはいいんだよ。クリップとしてすごく完成度が高い。でも間のストーリーが弱いから、飽きちゃうんだ。
竹部:ビートルズを見られる喜びあるのにね。『イエロー・サブマリン』はいつ見た?
大須賀:いつだったかな。フィルムコンサートで観た記憶がなくて、VHSでも観ていないと思う。
竹部:ということは2000年くらいにDVDが出たあたりかな。映像が綺麗になったやつ。
大須賀:そうだ。そのときに初めて『イエロー・サブマリン』を観て感動したんだよね。これはもうアート作品じゃんって。
竹部:最初に観たのは復活祭だったんだけど、あまりに画質が汚いんで、そのときはいいと思わなかったんですよ。あれはカラフルな映像で見ないと良さがわからない。DVDが出るときに映像会社の試写室で観て震えるほど感動したよ。
大須賀:「ルーシー」とか「エリナー・リグビー」とかのシーン、すごくいいよね。
竹部:それが復活祭では伝わってこなかった。話を戻すけど、復活祭の同じ空間にいたとは驚きだよね。
大須賀:マニアの秘密集会みたいな空間がたまらなかった。
竹部:隠れキリシタンみたいなね。
大須賀:妙な熱気があったよ。
ビートルズは自分なんかが弾くものじゃない

竹部:ギターを始めるのはそのあとくらい?
大須賀:そうだね。中学のときに「ギターが欲しい」って親にねだったら、「ギターなんか与えたら勉強しなくなるから、高校受かってから」って言われていて、ようやく高1で買ってもらえたの。
竹部:フォークじゃなくてビートルズを弾いたの?
大須賀:ビートルズは神格化していたから、自分なんかが弾くものじゃないと思っていて、だから最初に弾いたのはフォーク。あと、ロックバンドに入りたいと思ったんだけど軽音楽部に同級生のバンドは1つしかなくて。そこにギターがむちゃくちゃ上手いやつがいて、彼が甲斐バンドのファンで、マニアックなほどの完コピをしていた。ほかに選択肢がないから、そこに入れてもらったんだ。だから、甲斐バンドは好きとか嫌いとか感じる以前に、覚えなきゃいけなかったという(笑)
竹部:そうだった。大須賀くんは甲斐バンドが重要だったんだ。甲斐バンドとビートルズといえば、81年のはじめにNHKで武道館ライブが放送されたの。その収録日が80年12月9日でさ。甲斐さんがアンコールで楽屋に戻ってきたとき、そこに置いてあった夕刊紙の一面で報じられていたのがジョンの死。そこで甲斐さんが十字を切るんだ。そのシーンが強烈に印象に残っていて。
大須賀:それあったね。さっき武田鉄矢の話をしたけど、甲斐よしひろがラジオでジョンの死を語っていたのもよく覚えてる。僕はまだビートルズの入口に立ったばかりだったから自分では正直ピンと来てなくて、「この人たちがこれだけ言うんだから、これは大変なことが起こったんだ」と思った。
竹部:そんな甲斐バンドのコピーをしたあと、間もなくしてオリジナルも作り始めるんですよね? ぼくが大須賀くんと初めて会ったのって85年なんだけど、その時点で完成度の高いオリジナル曲を宅録で作っていたでしょ。MTRで録った音源だよね。いい曲で驚いたんだ。ぼくがやっていたバンドは、カセット2台を駆使した原始的な多重録音だったから、そこに江戸川と練馬の違いを感じたよ。
大須賀:でも、カセット遊びからラジオ番組やラジオドラマを作って、ミニコミ誌を作って、オリジナル曲を作ってというように、練馬と江戸川で同じようなことをやっていたのが笑えるよね。
竹部:ほんとうに。
大須賀:MTR導入前は蒔田が持っていたスーパーラジカセという機材で多重録音していたんだ。ラジカセなのにリバーブがかけられてオーバーダビングできる画期的な代物でさ。それを使ってしばらくやったあとに4トラックのMTRを買うんだよね。当時はまだ高かったよ。
竹部:大須賀くんの作る曲はメロディも構成もアレンジもしっかりしていて、センスの良さと鍛錬のあとがうかがえた。誰かの影響があっての作風だったのかな。
大須賀:別に誰かの影響を受けたという意識はないんだけど、まわりからはよくはっぴいえんどや大滝詠一っぽいって言われていたけど……。
竹部:そうなんだ。でも、80年代半ばにはっぴいえんどを意識的に聞いて、評価していた人って少ないよね。我々世代はとくに。
大須賀:少数派だったと思う。ぼくもはっぴいえんどを聴いたのは大学生になってからだから。
竹部:今みたいに重要なバンドみたいな扱いではなかったよね。レコード屋でもあまりレコードを見かけなかったし。自分が最初にはっぴいえんどを聞いたのは、83年か84年あたりにNHKFMでやっていた『細野晴臣の作曲家講座』って番組だった。そこで細野さんがはっぴいえんど「春よ来い」を流したんだ。「自分のルーツです」って感じで。それからレコードを探したけど、何を買ったらいいかわからなくて、偶然見つけた『CITY』を買った。85年の再結成だって別にピンと来てなかったよね。
大須賀:はっぴいえんどの良さがわかるのは90年代に入ってからだよ。だから、なんで似ているって言われるのか分からなくて。そもそもあんなすごいことしてないしね。
竹部:でもその時期にはっぴいえんどを引き合いに出されていたとは周囲の文化度が高さを思わせるよ。それで自分で作った曲をオーディションやコンテストとかに出したりしていたの?
大須賀:さっき言った高校の軽音楽部のバンドで、自分の作った曲の演奏のテープをヤマハのイーストウエストというオーディションに送ったの。「甲斐バンドの完コピ以外やりたくない」っていうリーダーを、曲の出来で納得させたんだよ。すごいでしょ(笑)。そうしたら第一審査を通って、渋谷のエピキュラスに呼ばれて、プロが使う録音スタジオでお偉いさんを前に演奏をしたんだよ。
竹部:そんなことがあったんだ?
大須賀:2曲演奏した後に、コントロールルームで聴いていたその人たちがぼくらにこう言ったんだ。「君たちは音楽をやっていて楽しい?」って。難しい顔して、怒っているような雰囲気で演奏していたんだろうね(笑)。当時はロックバンドって笑っちゃいけないと思っていたから。
竹部:ザ・モッズも「笑いながら演奏するな」って言ってた。『明星』で読んだ覚えがある。
大須賀:「楽しいか?」って聞かれても、こちらとしては「楽しいです」と言うしかないわけで。そうしたら「もっと楽しそうにやればいいんじゃない?」というようなことを言われて、ほめ言葉がひとつもなかったから、落ちたと思っていたら案の定落ちた。
竹部:貴重な経験だね。
大須賀:それが高3のときかな。そのあとに大学に入ってからさっき名前を出した大武と本気でバンドをやっていくの。