映画制作の現場から、企業ブランディングへ。
「戦場のようだった」と岡村さんは振り返る。制作進行の仕事はロケ先の撮影交渉や食事や車両の手配など撮影以外のすべてを任された。言い方を変えるとすべてのクレームが集まる仕事だった。そのうえ睡眠時間は2時間だけ。早朝から深夜まで働きづくめだった。
「肉体的にも精神的にも追い詰められましたね。5年くらいはいたけど、潮時かなと辞めました」
路線変更して入ったのがグラフィックデザインの世界だった。友人に「一緒に映画の雑誌をつくらないか?」と誘われたからだ。
「考えてみたら、ゴダールも『カイエ・デュ・シネマ』って映画雑誌の編集者から監督になった。こっち側から登ってみようかと」
ただ気がつけば、違う山を登り始めていた。「まずは経験」と転職したデザイン事務所ですこぶる高い評価を得た。映画雑誌の話は流れ、その道を走り始めたのだ。
「思いのほかクライアントの意図を汲み、形にするのが得意で」
映画制作の現場で手に入れた無理難題を調整する胆力も役だったに違いない。2011年、たどり着いた山頂は社員数十数名のブランドデザイン会社社長だった。多くのクライアントを持ち、売上利益も十分。ただ、そこから岡村さんはまた違う山を目指し始める。
きっかけは新型コロナウイルスの流行だった。あらためて仕事や人生を見つめ直すと、今いる場所は違うな、と感じた。
「クライアントから依頼を受けてする仕事に飽きていた面もあった。そろそろ自分自身のブランドを立ち上げるときじゃないかと」
いつものクライアントワークよろしく棚卸しからはじめた。何が好きで得意か? 自分をひもとけばホコリを被っていた映画への情熱が、大きなまま残っていた。
「コロナ禍になり映画熱がぶりかえし、観まくっていたんですよ」
そうして映画館を思いつく。ただのミニシアターじゃない。映画を通して映画館とお客さんがつながり、話が弾む場にしたかった。
「なぜか? 不満があったから」
かつての古着店や中古レコード店には店と客とのコミュニケーションがあった。そんなカルチャーを通した交流こそに心が踊った。映画館にはそれがなかった。
「そこで小さな映画館だけど同じくらいのカフェを併設したミニシアターを着想した。映画好きのスタッフを配し、たっぷり鑑賞後に話し込んでもらう。そんな映画館ならまず僕が行ってみたい。もう何本観られるかもわからないし」
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