5代目担当ディレクターが回想する90年代のビートルズシーン|ビートルズのことを考えない日は一日もなかった 特別対談 Vol.19 森俊一郎

レコードからCDへの移行が進み、音楽マーケットが拡大した1990年代。追い風に乗ってビートルズも飛躍的にセールスを伸ばした。そのCD黄金期に東芝EMIでビートルズを担当していたのが森俊一郎さん。近著『東芝EMI洋楽部の輝ける日々』にはビートルズほか、担当アーティストの貴重なエピソードが満載されていますが、ここではポール初来日公演を中心に90年代のビートルズシーンについて、最前線で仕事をしていたディレクターだからこそ知る当時の話をいろいろ細かく聞きました。

ある時代の日本の洋楽史、そして東芝EMIへの愛

『東芝EMI洋楽部の輝ける日々』(シンコーミュージック)

竹部:著作『東芝EMI洋楽部の輝ける日々』読ませていただきました。ビートルズファンとしてはもちろん、森さんを知る身としてとてもおもしろかったです。

森:書くって楽しいですよね。

竹部:この本を読んで思ったのは、そこなんです。

森:わかりました?

竹部:伝わってきますよ。揚々と書かれている。あと時系列じゃないのもいいなと。その組み立て、展開がいいなと思いました。自分も経験あるんですが、単に時系列にすると、普通すぎて魅力が半減してしまう危険性もありますよね。読ませたいところ、ハイライトとなる部分を前半に持ってきたりした方がいいなってあらためて思いました。

森:単に書きたい順番に書いていっただけなんですけどね。

竹部:そもそもこの本を書くことになった経緯は?

森:元々は東芝時代の先輩の瀬古(英男)さんと阿佐美(俊夫)さんがfacebookで当時のことを書かれていて、それがすごくおもしろかったので、「もったいないから本にしてまとめませんか」というところから始まっているんです。当初の計画では3人の共著にしたいと思っていたんです。具体化したのは2年前の2月。有働誠次郎さんのお別れ会に行ったとき、シンコーミュージックの森田さんに会って「実は書きたい原稿があって、本にしたい」っていう話をしたんです。そしたら「考えますね」って言ってもらって、それから田中さんという担当を決めて、2人で書籍化を進めていった。僕としては、東芝という会社の成り立ちから書いてみたかったんですけどね。

竹部:家電の東芝からの歴史ということですか。

森:東芝を立ち上げた田中久重さんっていう、東洋のエジソンと言われた人のことを調べてみると、すごく興味深い。東芝の歴史をまとめた本はたくさん出ていますが、少し噛み砕いて書いたら絶対に面白くなると思ったんです。

竹部:ビジネス本ではなく? 僕も藤本(国彦)さんと石坂敬一さんの自伝『わがビートルズ革命』を作ったときに、お父様の範一郎さんの話も出てくるので、東芝が音楽事業を始めて東芝音楽工業ができる経緯を調べたら、すごく面白かったです。

森:そうなんですよね。でも今回は田中さんから「森さんが東芝時代に手掛けたアーティストの中から『ミュージック・ライフ』で取り上げていたアーティストを中心にしてやりましょう」と言われて、あの形になったという経緯です。

竹部:読み終えて思ったのは、森さん史であることはもちろん、ある時代の日本の洋楽史、そして森さんの東芝EMIへの愛をすごく感じました。

森:ほかの人が自分のいた会社のことを書いても同じような気はしますけどね。

竹部:でも東芝の人たちの強い絆を感じるところはありましたよ。

森:この本を書くにあたって、何人かの先輩に話を聞いたわけですよ。入社から一緒に仕事をすることが多かった三好(伸一)さんをはじめ山田(正則)さん、菊池ジュニアさん、鈴木博一(ぱくさん)さんなどのお話を聞いたら、自分の知らなかった面白いエピソードがどんどん出てくる。それがすごく面白かった。三好さんは取材後に亡くなってしまったので、貴重な取材になりました。

竹部:森さんの前のビートルズ担当・三好さんですね。レコードを買うとライナーノーツに「ビートルズに関する問い合わせは東芝EMI・石坂、三好まで」とあって電話番号まで書いてあった、その三好さん。そういう人の証言を残しておくことは大事ですよね。石坂敬一さんの自伝は、亡くなる一年前くらいから定期的にお会いして話を聞いていて、もっと聞きたいことはたくさんあったのですが、今思えば発言を残しておいて本当によかった。

森:石坂さんはカリスマ性のある人でした。僕が洋楽部だったとき、石坂さんは統括本部長として洋楽と邦楽の両方を見ていたんです。着任した初日かな。9時出社に絶対に遅れるなと言われて、9時に出社すると部屋の真ん中の席に石坂さんが秘書室長と2人で立っていて、みんな入ってくるのをずっと見ているんです。なんか軍隊みたいだなって思った(笑)。

竹部:強烈ですね。この本には石坂さんのエピソードがいろいろ書かれていますけど、ほかにも読みたかったです。

森:93年のポールのワールドツアーはオーストラリアが初日だったんですね。会社のスタッフ何人かで行くことになったら、石坂さんも同行することになり、我々とは別にファーストクラスで前乗りしたんです。コンサートを観たあと、1日空いたので、せっかくだから動物園に行ってコアラでも観ようかという話になり、これにも石坂さんが同行することになった。石坂さんはスーツしか持ってきていなくて、スーツでコアラを抱いていました(笑)。

竹部:ジョンが死んだ日に、自分はハード・ドライヴィング・ビジネスマンになると言って、これからはスーツしか着ないと決めたんですよね。石坂さんの話で思い出したんですが、自伝用の取材のとき「ビートルズファンの問い合わせにはどう対応していたんですか?」と聞いたんです。そうしたら「実際に会社まで会いに来るやつまでいた」って。「おれのほうが詳しいんだ」みたいなことを言うから「舐められちゃいけないと思って論破した」って言っていました。

森:石坂さんらしい(笑)。三好さんも石坂さんに近いところがありました。ペット・ショップ・ボーイズが売れ始めた頃、「これはもう自分が知っているロックではない。役割は終わった」と言って、担当を外れて、自分のレーベルを作った。それで僕がビートルズの担当になったっていう流れなんです。

過去のバンドだった80年代のビートルズ

東芝EMI作成のビートルズ販促用小冊子

竹部:そうなんですね。その話はまたのちほど。この本の話に戻しますが、執筆にあたって、昔のことって覚えていましたか。

森:覚えていることだけを書いたんですよ。

竹部:当時のメモとかは?

森:全然。記録もメモも残さない人なので全然ないです。だから忘れていることがいっぱいあって、当時のことを調べていく過程で浮かび上がってくる事実と自分の記憶と照らし合わせて書いていった感じです。そのあと、イベントなどで人前で話すと、本を書いたときには思い出せなかったことが出てくる。人とのやり取りのなかで、こういう話もあったよなっていう。

竹部:人と話をしていたときに、突っ込まれて初めて思い出すというのはありますよね。この対談でもそういうことがあります。

森:だから、すごくいい脳のトレーニングになりました。やっぱりビートルズのことを聞かれることが多いので、ビートルズのことがよく思い出されるんですよ。

竹部:今日のテーマはそのビートルズなんですが、この連載を始めたときからいつか森さんに出てもらいたいなと思っていたので、本当に光栄です。森さんのことは80年代からビートルズ担当として一方的に存じていて、その頃から憧れの存在でしたから。オリコンに入って、どうにかして森さんと知り合いになりたいと思って、同僚だった営業の茂木君を通して紹介してもらったんです。

森:そうでしたっけ。

竹部:オリコン入社が94年で、辞めたのが07年だから、ビートルズ史で言うと、『BBC』『アンソロジー』から『LOVE』まで。仕事での付き合いが始まったのは『オリジナル・コンフィデンス』の編集として東芝の担当になってからなので『1』以降なんです。

森:2000年代以降か。その頃はもう僕は洋楽部ではなくストラテジック部でしたね。

竹部:紙ジャケ特集で森さんに取材した記憶があります。で、今日はビートルズ担当としての森さんの話を聞かせてください。森さんの東芝入社は82年ということですが、その頃の社内でのビートルズの扱い、存在ってどんな感じだったか覚えていますか。80年代のビートルズシーンは、ジョンの死、その前のポール逮捕などネガティブな要素が多くて、ファンにとってはあまりいい時期じゃなかった。それまでコンスタントに出ていた編集盤も出なくなって、LPはイギリス統一みたいなことになって、リリースも徐々になくなってしまいました。ソロに目を向けてもポールの『タッグ・オブ・ウォー』はヒットしたけど、徐々に活動が地味になっていって、ジョージもリンゴも同様という感じでした。

森:入社して早々に『タッグ・オブ・ウォー』が出たんですよ。それは覚えています。ポールは山田さんが担当で、僕はビートルズの担当だった三好さんの隣だったので、その仕事ぶりを端で見ていたし、プロモーションを手伝うようになっていました。ビートルズの小冊子を定期的に作って、それを店頭キャンペーンに繋げるという。小冊子作りは東芝洋楽部の重要な仕事で、伝統として受け継がれていました。

竹部:よくできているんですよ。たくさん持っていますよ。資料性も高くてとても無料配布とは思えない充実度でした。きっかけはやっぱり70年代初期の石坂さんですかね。

森:80年代以降はビートルズ・シネクラブに編集を手伝ってもらっていました。

竹部:確かにページの中に必ずファンクラブ入会の告知がありました。今日はポール初来日時に作られたこのあたりを持ってきたんです。「やっと会えたね」のキャッチコピー。これは森さんですよね。

森:たぶん、そうですね。

竹部:ファンの気持ちを代弁してもらったという感じで感動の小冊子でした。やっと会えたねって辻仁成が中山美穂に言う前ですからね(笑)。

森:(小冊子を手に取って)これはしっかり作っているな。

竹部:ポール初来日の話は後程たっぷり聞きますね。

90年のポール初来日時に作られた小冊子、やっとあえたね。

森:入社の翌年が『パイプス・オブ・ピース』、その翌年は『ブロード・ストリート』。この辺りはプロモーションをしました。

竹部:ラジオ、雑誌がメインでしょうか。

森:そうですね。入ってからずっと主にラジオのプロモーションをやっていたので、ラジオまわりの人脈は結構ありました。ラジオに加えて専門誌も担当していましたよ。あの時代はラジオと専門誌をしっかりプロモーションできればある程度盛り上げられたんです。やったことが数字として見えやすかったから、やっていて面白かったです。

竹部:当時の洋楽は盛り上がっていましたからね。続々新しいアーティストが出てきて、ヒットを飛ばして来日していました。僕も普通にデュラン・デュランとか聞いていましたし。マイケル・シェンカー・グループの武道館に行ったり、ハードロックやヘヴィメタルも好きでした。そういう状況からすると、ビートルズってすごく昔のバンドというイメージだったんですよ。

森:そのときはそうでしたね。

竹部:メディアが取り上げたいアーティストはリアルタイムで売れているメンストリームの人たちのわけで、そこに過去のバンドであるビートルズ、ソロのポールをプロモーションするって大変だったんじゃないかなと思うんですが。

森:それはクイーンでも感じていたぐらいでした。84年にクイーンが東芝に移籍して『ワークス』というアルバムを出したんですが、そのプロモーションで相当苦しみました。あの頃の『ミュージック・ライフ』は、クイーンでもモノクロの記事でしたから。それと同じような感覚で、いやそれ以上にポールは過去のアーティストっていう立ち位置だったと思います。

竹部:当時『ミュージック・ライフ』と『ロッキング・オン』を買っていたんですが、ビートルズやポールが載っていたことはほぼなかったです。松村雄策さんが『ロッキング・オン』で勝手に書いているぐらい。ポールはアルバムレビューぐらいでしたね。まわりにもビートルズを聴いているという人やポールファンってあまりいなくて、寂しい思いをしたものでした。でも「復活祭」に行くとファンがたくさん集まっていて、しかも皆若かった。当時の客層は高校生か大学生ぐらい。年寄りはいなかった。今考えると信じられないです。

森:なるほど。この世代がちゃんと育って今のビートルズ人気を支えていると。

竹部:そうなんですよ。私の世代です。

森:そのあと、僕はヴァージンの専任担当になったので、85年~86年あたりは全然関わっていないんですが、復帰したあたりに出たのが『オール・ザ・ベスト』。

竹部:87年ですね。「ワンス・アポン・ア・ロング・アゴー」で『夜ヒット』に出たじゃないですか。

森:あのときにポール側とフジテレビとの間で来日の話が進みつつあったんじゃないでしょうか? その頃から動いていないと90年の来日は実現していないと思うので、水面下では動いていたんでしょう。今から思えば、パズルのピースがハマっていく出来事のひとつでした。

竹部:その段階ではボールが日本に来るっていうのは全然期待していなかったです。85年末に『ベストヒットUSA』でポールの独占インタビューが放送されたんですが、そのなかでポールが小林克也に「ツアーなんかやらない。ツアーは独身のやることだ」と言っているんです。その発言にがっかりしていたんで、来日は考えられなかったですよ。

森:その段階ではまだ誰も思っていない。

竹部:森さんがビートルズの担当になるのは89年でしたよね。

森:先程言ったように三好さんが新しいレーベルを作って、異動してしまったので、隣に座っていたからということでもないんだけど、僕が5代目の担当になった。89年のことです。

竹部:どんな気持ちでしたか。

森:特別なアーティストを担当することになったという自覚はもちろんありました。でもそれで感動することはなかったですね。僕の中でビートルズがナンバーワンの存在ではありませんでしたし、あくまでも仕事のひとつという感覚。ビートルズのことをやりながら、次から次に出てくる新しいアーティストをやらなければならないわけですから。年間のスケジュールを見たとき、ビートルズのアイテムが出るならそのために力をセーブしないとまずい、そういうことは考えていました。仕事量が半端じゃなく増えるはずなので。

竹部:ビートルズ担当だっていうだけで仕事が増えますからね。いろんなところに呼ばれたり、寄稿したり。

森:それは光栄に思っていましたけどね。

竹部:ファンからマニアックなことを聞かれたりしましたでしょ?

森:なんじゃそりゃみたいなことも聞かれました。少し後のことですが、たとえば税率が変わるたびに、CDの帯が変わるじゃないですか。あるファンの人から「消費税5%のときの『イエロー・サブマリン』が見つからないんですけど」って言われたことがあったんです。

竹部:森さんに言われてもねって話ですけど(笑)。

森:こっちも焦って調べるじゃないですか。そうすると、在庫がまだあった。『イエロー・サブマリン』はアルバムとしていちばん売れていなかったからなんだなって思ったり。

ポール初来日公演実現までの狂騒の日々

ポール『フラワーズ・イン・ザ・ダート』リリース時の小冊子

竹部:89年はポールの『フラワーズ・イン・ザ・ダート』のリリースから、いよいよ来日公演の動きが出てきます。

森:この本にも書いているんだけど、『フラワーズ』が出た後のある日の会議で宣伝課長が「ポールの来日がそろそろ止まりそうだ」ってレポートをしたんです。

竹部:「なんで担当の僕に教えてくれないんですか?」と抗議した話ですよね。

森:そうそう。

竹部:『フラワーズ』のタイミングで再び『夜ヒット』に出ましたよね。ロンドンからの中継で「マイ・ブレイヴ・フェイス」と「ディス・ワン」の2曲を歌ったんです。そのときにはもうライブツアーの話をしていて。

森:それが夏前ぐらい。かなり水面下で話は出来上がっていました。そのあたりからフジテレビの事業部に頻繁に出入りして最新情報を取ってくる動きをしていました。

竹部:来日が発表されたのはそれから半年後の12月15日。公演の3か月前で、かなりギリギリのような気がするんですけど。

森:当時はそんなもんでしょうね。

竹部:12月に入ってから、マメにキョードー東京の前に行って動きがないか張っていたんです。そうしたら同じようなことをしている人が何人かいて、そこで知り合いになった人から発表の前日に連絡が来て、「明日発表だからこれからキョードー東京の前に並んだ方がいい」って。すぐに駆けつけて並び始めたんです。着いたのは18時くらいでそこから寒空のなか徹夜で並んで、早朝に整理券を3枚もらうことができた。チケットの発売日は年明けの1月7日。整理券1枚で10枚買えたので30枚買おうと思って、チケット1枚7000円だったから21万円。

森:現金ですよね。

竹部:現金21万円をもってキョードー東京にいきましたよ。

ポール初来日公演日程変更のお知らせ

森:あのあと、日程が変わったじゃないですか。それは影響されました?

竹部:それは払い戻しをしました。

森:あの頃は毎日のように河田町のフジテレビに通い詰めていたんですが、日々何かしらの問題が起きるわけですよ。僕は興行の直接の責任者ではないけれども、それによって情報の出し方が変わるじゃないですか。対応して解決しなきゃいけない。その最大の問題が日程変更でした。突然決まったんです。僕はフジテレビで得た最新情報を宣伝に伝えて「こういう問い合わせが来るかもしれないから、こう説明して」と指示を出したりしていました。どう調整したのか。覚えていないぐらいの悪夢でしたね。キョードーの人たちと夜通し会議をやったことを覚えています。かなり臨場感がありました。

竹部:ファンとしてはポール=フジテレビじゃないですもんね。やっぱり東芝EMIがいちばん情報を握っているんだろうって思いますから。たしか、『夜ヒット』でポール本人が日程変更のお詫びをしましたよね。

森:1日公演をキャンセルするわけですから、それは大変なことでした。あの時代だったからなんとかなったんでしょうけど、今だったら大炎上ですよね。結局、元々初日だった2日がキャンセルになって、3日が初日になった。

竹部:そうでした。ファンとしては過去のいきさつがあるから何があっても来てくれればいいみたいな気持ちでした。あと、忘れられないのは『48HOURS』という番組。アメリカCBSで流したポールの追っかけドキュメントをフジテレビが深夜に字幕付きで放送して、来日を盛り上げていました。あと、忘れてはいけないのが『フラワーズ』の来日記念盤。あれは森さんの仕事ですよね。

森:本にも書いていますが、実現までMPLと厳しいやり取りがあったんですよ。

竹部:あれ以降ああいう形での来日記念盤は普通になりましたが、あの当時はまだありませんでした。

森:最初はポールの音源でビートルズの曲を揃えたCDを来日記念盤として出したいとリクエストしたんです。でもそんなのは向こうもお見通しで、それはダメ。僕もそれまでの経験からOKは出ないだろうなっていうのはわかっていた。で、もう一案バックアップとしてもっていったのが特別感のあるパッケージにすると言うアイデア。次善案を持ってないとまずいと思ったので、当時出たばかりのサザンの『サザンオールスターズ』というアルバムのCDを持参したんです。カブトムシが交尾しているジャケットのやつ。あれの初回盤は腕時計が入っていたんですね。だからパッケージがちょっと分厚くなっている仕様でした。それを、それを見せたら、「これだったらわかる」と。思いのほか感触がよかったので「じゃあそれで進めましょう」ということになり、その次に本体につけるおまけを何にするかということになり、それについて話をしているうちに「未発表曲があるから、それをまとめてもう1枚CDをつけるっていうのはどう?」と提案されてあの内容になったんです。

竹部:それはどういうやり取りだったんですか。メールのない時代に。

森:公演の前にマネージャーのリチャード・オグデンが来日したんです。フジテレビとの打ち合わせで来日したんだと思いますが、レコード会社の人間にも会うというので、プロデュースセンターの仕切りで、ホテルオークラのカメリアで打ち合わせの場が設けられたんです。そのときにMPLから言われたセリフは全部覚えていますよ。

竹部:そんな背景があったんですね。「ラブリエスト・シング」とか、あの来日記念盤で聴いた曲も多かったのですごくうれしかった。『フラワーズ』って数字的にはいかがでしたか。

森:10万の数字には届いていて、その来日記念盤を入れたら、15万まではいっていたはず。

90年の初来日公演からつながる今のポールとビートルズ

東芝EMI制作来日記念小冊子

竹部:それでいよいよポールが来日。2月28日に成田に到着してホテルオークラに入るわけですが、森さんはどんな動きをしていたか覚えていますか。

森:いい質問ですけど、全然覚えていない(笑)。人手不足で現場に駆り出された記憶はあるんですが、どこに行ったのかは記憶にない。スタッフで手分けしていたと思うし。コンサートのクルーは少し前に日本に入って、ドームでステージの組み立てをしていたからそっちに行っていたのかもしれない。

竹部:到着日、僕は成田まで出迎えに行ったんですよ。どうやって情報を入手したのかは覚えていないんですけど、とにかく行かねばと思って車で成田に向かったんです。夕方あたりに着いて、人ごみのあるほうに歩いて行ったらすごいことになっていて。シネクラブの人が「静かにしないとポールは出てきません」と叫んでいて、ポールが出て来るとなったらさらにパニックになって、前方に進もうとすると、前から押されて、後ろからも押し返されてという感じでやっていたらいつの間にか結構前のほうに出ることが出来て、目の前でポールの入国を見ることができたんです。

森:普通のゲートでした?

竹部:はい。その前にヤクルトの選手が出てきたんですよ。ユマキャンプから帰ってきた長嶋一茂を見ました。だからロビーは混乱していましたよ。異様な感じでした。ポールも怖かったんじゃないですかね。その翌日がMZA有明での記者会見なんです。

森:もちろん現場に行っていました。僕はバックステージにいて、ポールはちゃんと時間通りに出てくるかということを見ていました。フジテレビの生中継も入っていましたし。

竹部:よく6時のニュースの中に生中継の記者会見を入れましたよね。

森:出てきていきなり「マッチボックス」。一瞬「これなんだっけ?」というスタッフもけっこういましたよ。

竹部:まさかの「マッチボックス」。僕はMZAまで行ったんですが、一般人ゆえ会場内に入れず。ポールに会うことはできませんでした。森さんは来日中ポールに会う瞬間はあったんですか。

森:来日中はほぼなかったですね。取材の立ち会いぐらいで。

竹部:あのときの取材はNHKの『ニュースセンター9時』と『木根尚登のオールナイトニッポン』くらいだったでしょうか。

森:FENにいたラリー・マクガイヤーって押しの強い人がいて、「取材させろ」って強引な感じで言ってくるんですよ。こちらもいろいろプロモーションをお願いしていたので、むげにもできず、最初は丁寧に対応していたんだけど、あまりにしつこいから「できないから!」って言ったら、独自でルートを見つけたらしく。ある日ポールに取材している現場を見て、唖然としたけど……。日本側の取材は僕らに一任されているはずなんだけど、そこを超えていろんな手を使ったんだと思います。

竹部:そんなことがあったんですね。それで初日を迎えます。3月3日、土曜日でした。

森:公演中、関係者は3塁側のダグアウトで待機しているわけですけど、1曲目の「フィギュア・オブ・エイト」が聞こえたときは本当に感動でした。仕事としてその場にいたのにあの瞬間は涙が出てきました。自分はポールと同じ空間にいるんだよね。あそこにいるのは幻じゃなくて本物のポールなんだよねって思いながら……。

竹部:それまでの苦労もあったし。

森:でも、なにかトラブルがあると、客席の横を走って外野席の下にある楽屋エリアまで移動する。ひたすらバックヤードを走っていましたね。若くなきゃできないですよ。

竹部:連絡するにもまだ携帯が普及していいない時代ですよね。

森:携帯はあるにはありました。かまぼこ型のでっかいやつ。それを借りていたので、一応連絡はつきましたけど、バッテリーの消耗が早いし、電波が悪くてすぐ切れるしで。招聘側のスタッフではないからインカムはもたせてもらえなかったし。

竹部:今では考えられない通信環境ですね。僕も初日、「フィギュア・オブ・エイト」でポールが出てきた瞬間の感動と言ったらなかったです。「フィギュア・オブ・エイト」は今でも特別な1曲です。

森:あえて外タレと言いますけど、当時はまだ外タレの大物アーティストの来日は特別なことで、簡単に見られるものではありませんでした。90年2月にストーンズ、続く3月にポールって、いま振り返ってもすごい時期でしたね。

竹部:ほんと入れ替わりだったんですよね。

森:オークラの部屋も入れ替わりだったようです。

竹部:ポールの追っかけでオークラに行ったら、ストーンズの追っかけの人が残っていて、その人と仲良くなりましたから。

森:ホテルではポールを見られたんですか。

竹部:オークラ別館に特別の出入り口があって、ドームに向かってリムジンに乗り込むときに、ポールはちゃんと手振ってくれるんですよ。これからドーム行くよって感じで。それが毎回。最初の頃はそんなに人はいなかったのもよかったです。今のペニンシュラとかはすごいことになるじゃないですか。当時はまだ牧歌的な感じでした。徐々に人が増えていったんですけど、僕は最終日にまた成田に見送りに行ったんですよ。そこはあまり人がいなくて至近距離でポールとリンダを見られた。これも感動でした。とにかく、僕の人生において、あの来日は大事件でした。

森:それはわかります。

竹部:成田からの帰り道、カーステで「ラブエスト・シングス」を聞いたとき、自然と涙が出ましたよ。なぜ90年のポール来日にこだわるのかといいますと、この成功があったからポールは今も歌っているし、ビートルズは今でも現役のような影響力があるんじゃないかと思うんです。ビートルズ史においてすごく重要なイベントだったんじゃないかと。

森:おっしゃる通りで、その前後にいろんなことが起こっているじゃないですか。

竹部:87年の初CD化から始まって、89年のリンゴ、90年のポール、91年のジョージの来日があり。

『アンソロジー』『1』で生まれた新しいビートルズ観

『ビートルズ・アンソロジー1』

森:92年にデビュー30周年で「ラヴ・ミー・ドゥ」のシングルがアナログ出て、アルバムをアナログで出し直した。そういえば、そのとき社内でこんなことがありました。石坂さんが洋楽部のスタッフ全員を集めてビートルズのレコードを試聴するという場が設けられたんです。その時代だとスタッフも若返りして新しくなっているわけですよ。役員会議室に集められて、石坂さんがプレイヤーの横に座って、1枚目から数曲づつ選んでかけていく。あの人はビートルズに関してはイギリスオリジナルリリースの原理主義者だから、そこに『オールディーズ』が入るわけ。

竹部:『オールディーズ』は重要なレコードだと思いますよ。今はなかったことになっていて残念です。

森:石坂さんも順番的に『オールディーズ』は重要なレコードだと考えていました。『プリーズ・プリーズ・ミー』から始めて『オールディーズ』を経由して『レット・イット・ビー』までかけて終了。終わったら「じゃあ」って(笑)。当時そこにいた人はみんな記憶に残っていると思いますよ。

竹部:僕がオリコンにいたときもオリコンの社員に向けた石坂さんの音楽講座みたいのがありました。当時の石坂さんはユニバーサルミュージックの社長で。その頃僕はユニバーサルミュージックも担当していたので、折に触れ取材をさせていただいて、あるとき「A&Rとはなにかというテーマで取材したい」と相談したら、「日曜の夜にホテルオークラのバーで話しましょう」ということを言われて……。行きましたよ。

森:石坂さんらしい。

竹部:それで、翌年には『赤盤』『青盤』が出るわけですよね。

森:そこから、セールスのレベルがぐっと上がっていくわけです。『赤盤』『青盤』はテレビスポットも打たずに、30万、40万売っていましたから。

竹部:CDバブルが始まろうとしていた時代ですね。

森:それで94年に『BBC』なんです。社内的に『BBC』はマニアの商品だからという空気が流れていたんだけど、僕は「これだけ『赤盤』『青盤』を買った人がいて、すそ野は広がっているわけだから、マニアの動きに釣られて買ってくれる人が絶対にいる」って言って説明をしたら、実際に30万くらい売れた。驚きましたけどね。

竹部:あの内容で30万はすごい。勢いを感じます。今思えば、このあたりは『アンソロジー』の露払い的な印象でした。

森:そう。そして95年の『アンソロジー』につながっていくわけですけど、最初に『アンソロジー』が出ると聞いたときは、ポールの来日と同じぐらい大変なことになると思いました。

竹部:ビートルズの新曲が入っているということで大騒ぎでしたよね。

森:何がどう起きていったかの細かいことは、正確には覚えてないですが、EMI本社から「マスターテープをイギリスまで取りに来て」と言われたのは9月、10月ぐらいの話だったと思うんです。発売が11月末だから、めちゃくちゃ短納期なんです。情報は制限されているなかでレーベルコピーだけ届いたんだけど、どういう曲かはわからない。こちらは発売日に向けて準備しておくしかないわけです。

竹部:東芝の役員の方がイギリスに飛び、アビイ・ロード・スタジオでマスターテープを受け取り、とんぼ返りで東京へ。それを成田で待つ森さんが受け取り、一旦会社の金庫に格納、翌日スタジオへという流れは著作にも書かれていましたが、読んでいてかなり緊迫感がありました。新曲だった「フリー・アズ・ア・バード」を日本で最初に聴いたのは森さんなんですよね。

森:それは間違いないです。

竹部:感想はいかがでしたか。

森:正直言って地味な曲。でも、何回か聞いているうちに、味が出てきた。そういう論理を自分の中で組み立てて、会社に戻ったときには、「涙失くしては聞けない名曲です」と自信をもって言うことができた。「再結成していたらこんな曲を作っていたでしょう」と演出して。

竹部:解散後の新曲は3曲ありますが「フリー・アズ・ア・バード」がいちばんかなと思います。メロディも演奏もいいし、アレンジも作りこんでいます。

森;最初の曲というのが大きいんじゃないですかね。本人たちの新鮮さみたいのが絶対にあるし、興奮している様子も伝わってきます。「フリー・アズ・ア・バード」は今聞いてもいい曲ですよね。

竹部:PVもいいです。

森:鳥の目を借りてビートルズのいた時代を見ていくかのような映像が伴うと説得力を増しますよね。それにしてもあのPVは何度繰り返し見たことか。映っているもの、意図しているものをメディアの人に説明しなきゃいけないじゃないですか。何度も見ましたよ。

竹部:『アンソロジー1』は世界同時発売でしたっけ。

森:11月22日、水曜日発売でした。その2日前の11月20日の朝に東芝の御殿場工場から全国のレコード屋に向けてCDが発送されたんですが、トラックで一斉に出荷されるようすがテレビのニュースで取り上げられるほどでした。ラジオ局でのオンエア解禁は、20日の午前10時。なので、この日の朝、各エリアの洋楽宣伝プロモーターがサンプル盤を受け取るべく、殿場工場に集合したんです。出荷されたばかりのCDを受け取って、その足でいち早く地元に持ってラジオでオンエアしてもらうために。

竹部:そこまで完全厳守だったんですね。

森:それを最もドラマチックに活用したのは福岡支社の洋楽宣伝担当だった小林和広という人間で、彼は前日19日から御殿場に泊って、朝一で工場に行ってその様子をラジオで中継したわけですよ。「今CDが出荷されました。トラックが何十台も出て行きました」みたいに。その日は福岡のFM局で1日中ビートルズ特番が組まれていて、そのなかで彼は新幹線の移動中も「今、関ヶ原通過中です」みたいに実況中継をしながら、福岡にCDを持ち帰って、ラジオで「フリー・アズ・ア・バード」をかけた。今の人に言っても何それって言われそうですが……。

竹部:時代を感じますね。そして20日『ニュースステーション』で「フリー・アズ・ア・バード」のPVがオンエアされた。この辺りはもうお祭りみたいでした。その流れで、大晦日にテレビ朝日は『紅白』の裏で『アンソロジー』を放送します。あれもインパクトがありました。さすがに視聴率は芳しくはなかったと思うけど、あれはビートルズしかできないことですよね。

森:まだ日本人のほとんどが『紅白』を観ていた時代ですから。でもあの出し方はわかりやすくてよかった。

竹部:宣伝効果は絶大だったでしょうね。

森:当時の『ニュースステーション』のプロデューサーは音楽に理解があって、そのおかげで、ビートルズの独占ネタはテレビ朝日でという風に決まっていました。

竹部:『アンソロジー1』のチャートアクションは最高位3位でした。

森:ミリオンはいかなかったですけど、80万くらいまでいったはずです。でも言ってみればマニアックな商品ですからね。『2』はイニシャルを高くつけすぎちゃって大変だったんですけどね(笑)。

竹部:あのときVHSも東芝から出ましたよね。

森:そうでしたね。

竹部:VHSが出たとき、『The Ichiban』の記事広告で、藤田朋子さんと対談したんですよ。東芝で映像を視聴しながら。

森:そのあとに『アンソロジー』の豪華本も出たじゃないですか。映像、書籍と連動したメディアミックスプロジェクトだったので『アンソロジー』はすごく印象に残っています。

竹部:数字にも現れていますが、ファンが戻ってきている、新しいファンがついているっていう実感はありましたか。

森:それはありましたね。『アンソロジー』が95年、96年と続いて。

『ザ・ビートルズ1』プロモキット

竹部:それ以降も、『イエロー・サブマリン』のソングトラックが出たり、話題は尽きませんでした。そして2001年に『1』が出ます。これが90年代以降のビートルズプロジェクトのいわゆる集大成的なものを感じました。

森:僕がストラテジックに異動になったのは99年の4月で、それ以降の現場は後任の藤村(美智子)に任せたんですが、おっしゃる通り『1』は90年のポールの来日から地道にやってきたことが、台地になり、丘になり、最後に大きな山になった感はありました。

竹部:『1』でビートルズ知ったっていう世代は多いですよね。

森:300万も売れたら、それは浸透しますよね。

竹部:とんでもない数字ですね。でも『1』は単に1位曲を並べただけの内容で、特別感はないですよね。未発表があるわけでもないし。ジャケットもシンプル。

森:ジャケットに関しては、本当かよって思うような話があるんです。少し前にニール・アスピノールがEMIのマーク・ヒートリーという担当者と一緒に日本に来て、東芝本社の裏にあったビルのN1っていう会議室でミーティングをしたんです。そのときニールは「次のビートルズのアルバムは1位曲を集めた内容で、ジャケはこんなのにしようと思っているんだ」って言って、たまたま僕が持っていた緑の蛍光ペンを持って、真四角の真ん中に「1」と書いたんです。

竹部:なんと。

森:実際に『1』のアートワークが届いたとき、色は違えどデザインはあのミーティングで見せてもらったままで驚きました。

竹部:それは興味深いです。

森:あの蛍光ペン返してくれなかったんだけど……(笑)。そのミーティングで行方(均)さんが「だったら、絶対、24ビットでリマスターしなきゃいけない」と言ったんですね。もし行方さんがその提案をしていなかったら24ビットにはなっていなかった。それは行方さんの功績なんですよ。

竹部:なるほど。アップル、EMIにとって日本はとても重要なマーケットだったんでしょうね。オリコン時代、行方さんにも何度か取材したことがありました。『1』の発売近辺で、また『ニュースステーション』でPVを流していましたよね。1週間やったんじゃなかったでしたっけ。「ストロベリー・フィールズ」「ヘルプ!」「デイ・トリッパー」とか、当時まだソフト化されていなかったものばかりを綺麗な画像で。あれは衝撃的でした。あと覚えているのはなんといっても渋谷ジャックです。

森:『1』の発売日は11月13日月曜日だったからその前々日と前日に渋谷の各所でイベントをやって街中をビートルズ一色にしたんです。

竹部:行きましたよ。いろいろなところでコピーバンドが演奏していて。楽しかったです。

森:リアルなプロモーションが有効だった時代。最後の幸せな出来事だったのかもしれないですね。

2000年頃配布された販促用手ぬぐい

 

アビイ・ロード・スタジオでポールから言われた「オッス!」

ジョン・レノン『イマジン~ミレニアム・エディション~』

竹部:その頃はジョンの再発も盛んでしたよね。

森;それは結構関わっていました。まだ自分が担当をやっていたので。

竹部:当然のことヨーコさんともやり取りされていたと。

森:頻繁にやりとりをしていた時代です。それこそ2000年のミレニアム・エディションの『イマジン』と『ジョンの魂』の再発盤にぼくと藤村の名前をクレジットで入れてくれたんですよ。クレジットされるとは思わなかったから、びっくりして感動したけど。

竹部:それぐらい濃いやりとりをされていたと。

森:ニッポン放送の特番用の取材で、湯川れい子先生とニューヨークに行ったことがありました。LFのスタッフが2人同行して、ダコタハウスで湯川先生がヨーコさんにインタビューをしたんです。

竹部:ダコタの中に行ったことあるんですか!

森:そのときだけですけどね。裏から入ると勝手口があって、そこに「ユートピアへようこそ」って書いてあった。そこを入るとキッチンで、その先にメインの食堂があって。そこの壁にウォホールが描いたジョンのペインティングがどんと飾ってあるんです。『メンヴ・アヴェニュー』のジャケットになったやつ。さすがに固まりますよ(笑)。

竹部:ジョンの気配、余韻は感じました?

森:さすがに僕には霊感がないから感じなかったけど(笑)。ヨーコさんらしいなと思ったのは、部屋のいたる所に自分の作品が置いてあるんです。作りかけの彫刻とか。やはり不思議なものを作るアーティストなんだなっていう印象がありますね。

竹部:あの再発盤って、ライナーノーツに必ずヨーコさんのインタビューが載っていましたよね。松村雄策さんがインタビュアーをやっていました。

森:藤村が現場をやっていた時代ですね。

竹部:信頼も厚かったんでしょうね。

森:あの時代は本当によくやり取りしていましたからね。いま思い出したんだけど、ポールと至近距離で会ったことがありました。99年かな。たまたまEMIの国際会議でロンドンに出張していたら、アビイ・ロード・スタジオでポールの『ドライヴィング・レイン』の試聴会があるというので、参加したんです。そしたら、本人が来た。僕を見て日本人だとわかったら「オッス!」って言われて。本当に「オッス!」って言うんだって(笑)。この頃のポールの自慢は、写真が撮れるカシオの腕時計だったらしく、「『ドライヴィング・レイン』のジャケット写真はこれで撮ったんだ」って言って、僕を撮ってくれたんです。

竹部:すごい!

森:もちろんそのデータはもらえなかったですけどね(笑)。

竹部:至近距離どころではなく、会話しているじゃないですか。ではアビイ・ロード・スタジオは何回か入ったことあるんですか。

森:90年かな。ファンクラブのツアーに関わったことがあって、そのときもスタジオに入ったし、そのあとも何回か入っていていますよ。あの頃はまだ、厳しくなかったから、取材やツアーで見学したいと相談されたらも、会社から話を通せば、割と簡単に入ることが出来たんです。

竹部:僕も一度だけ入ったことあるんですよ。

森:いつですか?

竹部:ジョージが亡くなった直後くらい。その頃、毎年フランス・カンヌで行われていたMIDEMに取材で行っていたんですが、参加者全員に配布される名簿を見ていたらアビイ・ロード・スタジオの人が来ていることがわかって、インタビューを申し込んだんですよ。そうしたら「期間中は忙しいから、ロンドンでなら会えますよ」と返信が来た。ということはスタジオに入れるのか、と思って、あらためてアポを取ったら「何日の何時にアビイ・ロード・スタジオで」と確約が取れたんです。それでスタジオを訪ねたんです。取材した人の名前は忘れてしまったんですが。

森:その人のオフィスですか。

竹部:アビイ・ロード・スタジオの応接室で取材しました。取材後に「第2スタジオ見てもいいですか?」と聞いたら「今レコーディングで使っているから。でも食堂ならいいよ」って言われて、食堂に行って、フィッシュアンドチップスかなんか食べました。食堂の横に中庭があって。あとになってからそこでポールが「バックヤード」という映像を撮っていたことがわかりました。

森:随分手軽なところで撮ったんですね。

竹部:今日、こうやって話を聞いていて、改めて森さんは本丸の人だなということがわかりました。

森:いやいや。本当の本丸はビートルズが現役だった時代に担当していた人たちですよ。高島(弘之)さん、水原(健二)さん。この2人は本当にすごいと思います。水原さんはこれまであまり語ってこなかったけど、きっといろいろな話を持っていると思います。

竹部:ジョンとヨーコのインタビューレコードは貴重ですよね。ジョンが普通に答えていたり、ヨーコが通訳しているのが生々しい。

森:そういう人たちから話を聞いて本を作ったらもっと濃いものができるというのは思いましたね。僕はあくまでも伝えるっていう立場で。

ポールの紙ジャケが起点となったカタログ活性化の動き

ウイングスのライブアルバム紙ジャケ復刻盤

竹部:それも読んでみたいです。が、森さんの話も十分面白いです。あらためて90年代のビートルズシーンの真ん中にいたことをどう思いますか。

森;安っぽい言葉ですが、本当にいい勉強させてもらいました。こんなにいい勉強できる素材は他にないので。レコード会社でカタログを扱う仕事をしている立場の人間としてはなおのこと。99年に僕がストラテジック部に移ったのは、カタログを扱う部署でしっかり仕事をしたいと思ったからでした。そのきっかけは、ポールの紙ジャケだったんです。その当時、現役アーティストのカタログは洋楽部の管轄で、カタログの部署では扱うことができなかった。ポールは現役なのでカタログは洋楽部の管轄なのだけど、紙ジャケに関してはストラテジック4部というカタログの部署で扱うと言ってきた。それは越権じゃないの?って僕が言ったところから始まって、その解決策として「カタログの定義をちゃんとしましょう。ビートルズの関連のカタログをストラテジックに移管しては」と提案したんです。したら、「じゃあ君がストラテジック部に異動してカタログを担当したほうがいい」ということになったんです。

竹部:当時のレコード会社は、それほどカタログに積極的ではなかったですよね。東芝が先駆でした。ストラテジックという言葉も新鮮でしたし。ストラテジックとは戦略的とかそういう意味じゃないですか。懐古という意味ではない。

森:そうですね。だから、それはやっておいて正解だったと思います。

竹部:森さんのこだわりは『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』ですよね。

森:LP時代は3枚組で、CD化で 2枚組になったから紙ジャケも2枚組で出そうとしていたから「そうじゃない」と言って3枚組した。そこだけは絶対譲りませんでしたよ。

竹部:思い入れがあるからですか。

森:高校生のときにリアルタイムで買ったレコードだったという思い入れもあるけど、紙ジャケとして再現するんだったら、徹底的に再現しないといけないという思いが強かったんです。それはお客さんに対して嘘をついていることになるんじゃないかと思って。それはその後のジェスロタルの紙ジャケにも繋がってくんですけど。

竹部: XTCの完全復刻にも驚きました。

森:そこから紙ジャケというフォーマットが注目されてひとつのマーケットが出来上がっていった。ウイングスの3枚組はきっかけのひとつだったと思います。

竹部:なるほど。紙ジャケの話は尽きません。そろそろまとめに入りたいのですが、森さんは今でもビートルズは聞きますか。

森:突然、『リヴォルヴァー』が聞きたくなって、どうしても「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」を聞かないと収まらないときがあるんです。理由はわからないですけど(笑)。でもこの曲を最初に聴いたのは、フィル・マンザネラの801っていうプロジェクトがライブでカバーしてバージョンなんです。

竹部:それは知りませんでした。

森:前に藤本さんのトークショーに呼ばれて、「ビートルズ体験を語ってください」って言われたとき、その曲の話から始めた記憶がありますよ。そのイベントではスージー&バンシーズの「ディア・プルーデンス」という、ちょっとひねくれたカバーもかけた。リアルタイム体験世代ではないと、入口は色々ですよ。でも色々なんだけど、ロックを聴いているとどこかで必ずビートルズに出会うんですよね。気が付いてない人もいると思うけど。

竹部:ビートルズが好きって言うとなんか当たり障りのない感じがするけど、そうじゃないですよね。駆け足で色々聞いたつもりが『セッションズ』とかヒプノシスのことを伺うのを忘れていました。ぜひまた第2弾やらせてください。

森:吉野家七味という名前でnoteを書いているので、ぜひ検索して覗いてみてください。

竹部:吉野家七味?

森:吉野家の七味が好きなんですよ。牛丼に辛くない七味をたくさんかけて食べるのが(笑)。

竹部:僕も吉野家の味噌汁が好きです。お湯を注いでいるだけなのになんかおいしい。

森:僕は完全に吉野家派なので。

竹部:僕もです(笑)。今日はありがとうございました!またぜひお願いします。

森:こちらこそありがとうございました。楽しかったです。また会いましょう。

吉野家七味note
https://note.com/yoshinoya_7mi

この記事を書いた人
竹部吉晃
この記事を書いた人

竹部吉晃

ビートルデイズな編集長

昭和40年男編集長。1967年、東京・下町生まれ。ビートルズの研究とコレクションを40年以上続けるビートルマニア兼、マンチェスターユナイテッドサポーター歴30年のフットボールウィークエンダーのほか、諸々のサブカル全般に興味ありの原田真二原理主義者。WEBメディア『昭和MILD(https://showamild.com/)』もよろしくお願いします。
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