100パーセントの恋愛小説、ノルウェイの森

当時わたしは市ヶ谷の駅から日テレ通りを少し上がったあたりにあった書店でアルバイトをしていた。近くに学校や会社、それにテレビ局があった関係で、坪数の少ない店ながら朝から晩まで客がひっきりなしに訪れる繁忙店だったが、そこでも『ノルウェイの森』はよく売れていた。いったい何冊の『ノルウェイの森』にカバーをかけたのだろう、というくらい老若男女問わずさまざまな人種が手に取り、そのままレジに並ぶという光景が目の前で繰り広げられた。飛ぶように売れると言うのはまさにこのことと思ったものだった。
通常書籍は取次を通して書店に入ってくるのだが、注文を出してもなかなか希望通りの冊数が配本されないというような愚痴を店主がこぼしていたことを覚えている。その勢いは88年になっても衰えるこなく売れ続け、『ノルウェイの森』は87年と88年の2年連続でベストセラーチャートのトップ10入りを果たしている(88年は2位と3位にランク)。
そもそもわたしが書店でアルバイトを始めたのは、本が好きだからという理由によるもの。村上春樹は以前からひいきにしている作家のひとりで、エッセイも含めて読めるものは大体のところ読んでいた。当時いちばん好きだったのは『ダンス・ダンス・ダンス』。匿名性というか、現実と夢が交差する世界観に強く惹かれ、文体も含めて影響を受けていたような気がする。当然のこと『ノルウェイの森』も発売されてすぐに社販で買って読んだのだが、初読の印象は今一つ響かなかったというのが正直なところ。それまでの村上春樹の魅力だったファンタジー要素が控えめで、ひどくいやらしい。ビートルズの曲名が頻繁に登場するのはうれしく思ったが、それよりも生々しい性描写のほうが気になってしまった。深くのめりこむことはなかった。
だが、それから数年後に読み返してみたら、思い切り感動してしまった。いとしい人を失うせつなさ、を考えるとともに、この人物は20年の間でどのように克服し、再生していったのだろうか、との思いをめぐらせ、このとき初めて帯文にあった100パーセントの恋愛小説の意味を理解する。87年当時二十歳の自分はノスタルジーという感覚や喪失感というものにまったく共感できていなかったと言うことなのではないかと思う。今では『ノルウェイの森』はお気に入りの小説である。
「ノルウェーの森」邦題表記の深い謎

と、ここまで書いておいてなんだが、ビートルズの曲名は「ノルウェイの森」ではない。原題は「Norwegian Wood (This Bird Has Flown)」。邦題は「ノルウェーの森」である。”イ”ではなく”ー(音引き)”が正しい。村上春樹はなぜこのような紛らわしいことをしたのだろうか。そしてこの邦題には深い謎がある。66年1月に『ラバー・ソウル』が日本で発売された際、この曲には邦題がなかった。帯には「ノーウェイジアン・ウッド」としか書かれていない。ということに、2010年になってふと気づいた。中古屋で『ラバー・ソウル』のOP7450品番の赤盤を入手した際、他の曲にはその後も定着している邦題が付いているのに「Norwegian Wood (This Bird Has Flown)」は「ノーウェイジアン・ウッド」と表記されていることに疑問を抱き、それではいつから「ノルウェーの森」なのかということを無性に知りたくなった。
手持ちの『ラバー・ソウル』を調べてみると、品番が変わり、帯を新装しても「ノーウェイジアン・ウッド」のままで「ノルウェーの森」の邦題がクレジットされたのは76年のEAS品番、いわゆる国旗帯のこと。「ノーウェイジアン・ウッド(ノルウェーの森)」という表記だ。しかしながらその後の『ラブ・ソングス』や『ビートルズ・バラッド20』では再び邦題は消えて、82年のUKモノ盤で復活(「ノーウェイジアン・ウッド(ノルウェーの森)」)、87年の初CD化の際も同様の表記になっていた。
日本のビートルズ史において、「抱きしめたい」に並ぶ名邦題にもかかわらず、この表記の揺れは何だろうと思っていたら藤本さんが「66年12月発売のコンパクト盤に『ノルウェーの森』とあります」と教えてくれた。なんと。初出はここか、と灯台下暗しな自分を恥じた。が、その後も気になり調べていると香月利一さんの『ビートルズ事典』には66年9月に発売されたブラザーズ・フォア『ビートルズを歌う』というレコードに「ノルウェーの森」と表記されていることが分かった。すると後日、また別の人からキングストン・トリオのほうが先との情報をいただいた。66年7月にキングレコードから出たシングルレコードがあるとのこと。ということは、「ノルウェーの森」という邦題は誰が付けたのか。
というような内容の原稿を2010年の『レコード・コレクターズ』のビートルズ特集号に寄稿したことがある。当時私は笹塚に住んでいたのだが、その近隣に『マガジン』の編集者がいて、偶然商店街で顔を合わせたり、下北沢のディスクユニオンで偶然同じ棚を漁っていたり、その流れで喫茶店に入ることもあり、そこで話したのが「ノルウェーの森」の謎であった。おもしろがってもらい『レココレ』の編集長に推薦してもらったという経緯だった。
とくに結論めいたことは書いていないのだが、その後の研究ではどういう答えが出ているのだろうか。ちなみに、09年のリマスター盤以降の表記は「ノルウェーの森(ノーウェイジアン・ウッド)」となっている。
