

ベイクルーズの創業期を駆け抜けて
日本におけるアメカジムーブメントの礎を築き上げたリビングレジェンドたちの貴重な証言を、Ptアルフレッド代表・本江さんのナビゲーションでお届けする連載企画。今回ご登場いただくのは、「ベイクルーズ」にて40年以上にわたりフロントマンとして活躍した後、自身のブランド「T.FUNKY WADA」を立ち上げたばかりの和田健さん。
学生時代からファッションへと傾倒した和田さんのキャリアは、当時、池袋に位置したインポートショップからスタートした。
「最初に立ったのは池袋北口のインポートショップ『DAN』でした。ダサい名前ですよね(笑)。その店に商品を卸していたのが、後に「ベイクルーズ」を立ち上げる、窪田夫妻。彼らに声をかけられたのがすべての始まりでしたね」。
1980年、窪田夫妻の誘いを受け、社員3名の小規模メーカーへと転籍。まだ大企業への片鱗もなく、倉庫の奥で商品を畳み、深夜にはバスで地方へと向かい、朝一の商談に備える。そんな過酷な日々を「とにかく楽しかった」と振り返る。
「熊本の『ブレイズ』とか、大阪の『中川』とか、全国の名店をとにかく廻りました。昼は商談、夜はバス(笑)。翌朝は展示会の設営。倒れる日もありましたけどね。当時はまだ企業というよりチーム感覚でした。何でも自分たちでやる。誰も役職を気にせず、熱量だけで走る時代だった。窪田さんは『成長こそ社会貢献、人を育てることが一番の貢献だ』と、よく言ってました。次第にそんな彼の思いが社内文化になっていったのです」。
バブルの空気が膨らみ、業界自体が浮足立つなか、和田さんは黙々と現場の声に耳を傾けた。
「売り場で何が動くか、肌で覚えました。当然データベースなんてなかったし、頼りになるのは、勘と感情。まあ、良くも悪くも、ぼくのからだの九割は『ベイクルーズ』でできていると思いますね(笑)」。
フレンチカジュアルという、あえての逆張り
90年代半ば、セレクトショップ界隈はアメリカ一色に染まっていく。いわゆる大手御三家も、アメカジやトラッド全盛期。
「だからこそ、異なる方向性を模索していました。勝ち負けじゃなく、同じことをやっても意味がないって思っていたのです」。
そうして和田さんはフレンチカジュアルに着目し、1996年、渋谷に「エディフィス」第1号店が誕生する。
「『アニエスベー』がちょうど日本に入ってきた頃で、白黒モノトーンが主流でした。でも、ぼくらはグレーとか生成りといった、曖昧な色みに惹かれました。フランスの街角にある“普通の服”を日本の感性でリミックスしたかったのです」。
もちろん見せ方も徹底した。店内を彩るヴィンテージの什器、あえての鈍い照明、音楽までフレンチテイスト。
「当時はまだ、生活感を見せるショップ、ライフスタイルショップなんて発想がありませんでしが、一方でパリのセレクトショップには、生活の延長線上に服があった。その空気を持ち込みたかったのです」。
「エディフィス」は瞬く間に支持を集め、アメカジ一色の市場に風穴を開けた。
「ズラすのが面白かった。日本人の几帳面さと、フランスの気だるさを混ぜると、なんか洒落て見える。それが『エディフィス』でしたね」。
さらに、その流れを受け、福岡で男女複合の「ジャーナル スタンダード」を展開。
「旧きよきアメリカを現代風にリミックスする。メンズもレディスも関係なく、同じ空間で服を楽しむ。手前味噌ながら、あれこそユニセックス時代の始まりだったと思います」。
拡大と多角化ブランドの枠を超えて
2000年代、「ベイクルーズ」は急速に拡大した。和田さんは、「ベイクルーズ」が抱える複数ブランドのECサイトを統合する際に、「スタイルクルーズ」というサイトの組織づくりに奔走。
「服を売るだけじゃなく、生活を提案する。そこに入ってきたのが、食と音楽と空間です」。
渋谷公園通りでアウトレット業態「ベーセーストック」を立ち上げたのも、他ならぬ和田さんだった。
「在庫を街中で売るなんて誰もやってなかった。ぼくらは在庫もコンテンツだと考えました。どう見せるかで意味が変わるんですよ。結果、アウトレットが安売りではなく、再構築の場所へと変化していきました」。
その後、飲食事業へ。渋谷や代々木八幡でレストランとジムを組み合わせた複合施設を運営。
「一生黒字にならないと思ってました(笑)。でも服も食も、根っこは同じ。どちらも人を元気にするツールなんですよ」。
やがて時代はECへ。社内では「ZOZOTOWN」を軽んじる向きが強かったものの、和田さんは提携を進言し、前澤友作氏と出店の約束をしました。
「出店料ゼロ、在庫もある。『やらない理由がないでしょ?』って言ったら、窪田さんにしこたま怒られました。でも、結果は大当たり。ZOZOがきっかけとなり、潜在的な顧客層が姿を現したのです」。
それは、のちにベイクルーズが独自ECを構築する基礎ともなっていった。
「ぼくはずっと、やったことのないことをやりたかった。数字より、ワクワクする方を選ぶ。失敗しても何かが残るから」。
飲食、中国進出、EC。やったことのない領域へとトライしたのも、根底にあるファッションへの強い思いからだった。
「衣料って、人と社会をつなぐメディアなんですよ。新しい出会いを作れる。それが面白くて、43年間続けてこられたのです」。
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