「Pt.アルフレッド」代表・本江さんと「GMT」代表・横瀬秀明さんの出会いとは?
昔から革靴のレジェンド的大先輩は数多くいらっしゃいますが、好きが高じて青山骨董通りを靴屋通りに変えてしまうほど、ずば抜けた行動力と発信力を持つクツオタク、「GMT」代表・横瀬秀明さんを紹介します。
最近では銀座と大阪で店舗展開してる老舗靴店「ロイドフットウエア」を創業者の方から継承運営。世界中から数々の名門を日本に届け、常に「靴が主役」と言い切る無類の靴好きにして、2001年に総代理店以上の意味合いを持つ合資会社「RPJ」を設立するほどに傾倒する「パラブーツ」は、特に彼の代名詞ともなったブランドと言えるでしょう。
30年ほどの付き合いになりますが、彼がメジャーブランドのスニーカーを履いてるのを見たことがないほどに、究極の革靴フリークなのです。
ドレスからカジュアルへ 移りゆく時代の気運
GMTの拠点がある渋谷区・代々木上原で横瀬さんは生まれ育った。中学生時分に公開された映画『サタデー・ナイト・フィーバー』をきっかけに靴への偏愛に目覚め、高校卒業とともに名門ワールドフットウェアギャラリー(以下WFG)に入社して研鑽を積んだ。
「主演のジョン・トラボルタにも惹かれましたが、個人的には劇中で履かれる革靴に何より衝撃を受けました。『グッチ』ではないもののビットモカシンを履いていて、その姿に憧れて16歳で生涯初の本格靴を手に入れました。学校卒業後はアルバイトでWFGに入り、そのまま社員登用されると、やりたいようにやっていいとのことだったので、テイジンメンズショップや伊勢丹、シップスやビームスといったセレクトショップにアポイントを取り、単身売り込みに行っていました。
やがてフランスのカジュアルウエアブランド『クリークス』を引っ張ってきた先輩の発案から、同社内の新事業として『クリークス』の大型路面店で働くことになったのですが、商社が参入したことで90年代には別会社として運営されることになり、WFGが靴専業に戻ったタイミングでよりドレス方面の強化を図ることになっていきました。
とはいえ、僕個人は『トリッカーズ』でもドレスではなくカントリーなどカジュアル路線をそれまでメインに売り込んでいましたし、それなりにヒットさせたという自負もありました。
また、世の中は空前のスニーカーブームに沸いていた頃でもあり、僕個人としてはドレスシューズよりも『ビルケンシュトック』や『カンペール』のようなカジュアルな革靴をやりたいという思いが強かったので、その2ブランドを当時の代理店から引き継がせてもらうかたちで94年に独立し、今の会社を設立しました。28歳のときのことです」
市場の成熟と海外資本の本格参入
来年で設立30周年を迎えるGMTはこうしてスタートした。横瀬さんの未来予測は見事に的中したものの、決して順風満帆とはいかなかったようだ。
「当時の同僚と2人で独立し、ほぼ無休でがむしゃらに働いていていたところ、僕らが思っていたようにまずは『カンペール』がヒットし、続いて『ビルケンシュトック』も人気を博していきました。それまではスニーカー一強時代、中でも『ナイキ』が市場を独占していたものの、[エアマックス96]の不調で一気に潮目が変わり、たちまちスニーカーブームが終焉を迎えることとなりました。
確かに僕が予想した通りにカジュアルな革靴のヒットが続いたワケですが、創業からちょうど10年後、まずは『カンペール』本体から、より市場を拡大するとのことで言わばお別れ宣言をいただき、僕らの事業の中核のひとつがここで抜け落ちていきました」
通称オデコ靴以降変わった潮目
今や主力となった「パラブーツ」との出会いもWFG時代のこと。曰く「とにかく売れない靴」を世界的名門に押し上げたのも、じつは横瀬さん率いるGMTに他ならない。
「WFGでは『ホーキンス』も扱っていました。後に『アールグリックス』という会社が『ドクターマーチン』ブランドを立ち上げる以前、あの象徴的なエアソールで一躍注目を集めたのが同ブランドだったのです。特に通称オデコ靴と呼ばれたスティールキャップ入りの短靴が大ブレイクしたことを受け、世の中的にも丸みを帯びた靴への関心が高まっていったのです。
そこで丸っこい靴を可能な限りリサーチし始め、海外の雑誌『ヴォーグペレ』に掲載されていた『パラブーツ』の[シャンボード]を見つけることとなりました。その頃はまだFAXもなかった時代でしたので、テレックス経由でカタログ請求し、シャンボード、キャッスル、ミカエルの3モデルのサンプルを取り寄せました。
もちろん、当時の日本ではまだ誰も知らないような未見のブランドでしたし、僕らも初めてお目にかかったのですが、早速シップス、ハリウッドランチマーケット、ビームスの3社に営業をかけたところ、シップスのバイヤーさんはその存在を知ってらして、すぐにオーダーをもらえたのです。
とはいえ、まったく売れません(笑)。他の靴よりもはるかに高い価格帯なのにまず知名度がない。それに本国フランスでも〝くたびれたオジサンが履く靴〟という位置づけにあり、世界的な市場においても一切注目されていませんでした。ですから、主力とは別に独立後も細々と続けていたブランドのひとつだったのです。
そんな中、1998年に『パラブーツ』本体が経営不振に陥り、僕らが仕入れていた日本の代理店が一旦業務を整理するということになりました。とはいえ、よくよく訊いてみたら、その代理店が『パラブーツ』に未払いを続けていたということがわかり、本国の方から僕へ連絡があったのです。「現状、日本国内に4000足ほどの製品があるはずだ。なんとか助けてくれないか」と」
パラブーツの復興世界的ヒットへ
その人望を買われ「パラブーツ」の復興に乗り出した横瀬さんを待ち受けていたのは、膨大な在庫と些末な処理作業の連続だったという。
「代理店は売れない商品なので4000足すべてを各取引先に委託販売していたことがわかり、僕らはなんとか彼らを助けようと一件ずつ頭を下げながら4000足すべてを回収していきました。数年後に「とりあえず4000足回収した」旨を伝えると「それなら日本で直営店をやってくれないか」と簡単に言うんですよ(笑)。
でも、これまでにお話したように『パラブーツ』って容易く売れる靴ではないんですね。それに当時の看板ブランドだった『カンペール』からも「ウチの総代理店なんだから勝手に『パラブーツ』なんてやらないでください」と言われ、それならばと別会社として独立させることにして。すべて集め終えた翌年にあたる1999年にRPJという別会社を設立しました。
青山に直営店を作る運びとなったものの、何の契約もしていない状態だったため、念のために契約だけはしておこうとフランスへ行ったところ、当時の会長も会社が傾いている状況なので、とにかくやってくれと。それで2001年にショップをオープンしましたが、まあこれが売れない(笑)。2011年ぐらいまで10期連続の赤字が続いていました。累積の赤字を全部埋めず、もう全部貸し付けとして、いわゆる債権ゼロにしちゃったんですね。
そうして腹をくくった頃、『インターナショナルギャラリービームス』と作ったデッキシューズがヒットし、徐々に風向きが変わっていきました。フランス本国での立ち位置も我々が日本で行ったマーケティングが功を奏し、一気に変わっていき、今や世界的にも注目されるブランドとなったワケです」
本江MEMO
1977年公開の映画『サタデー・ナイト・フィーバー』を観て、新宿の大箱ディスコ「ニューヨーク ニューヨーク」で全身鏡に映しながらダンスを真似するのがボクには精一杯でしたが、そんな時代に、彼は中学生にして主演のトラボルタが履いてたビットモカシンにヤラれていたなんて、今回の取材で初めて知りました。そこから「靴が主役」の目線が確立されたんだなと。映画『大脱走』を観て、スティーブ・マックイーンのパンツにヤラれ、以降は「チノパンが主役」になったボクなりの独り言です。
(出典/「2nd 2024年2月・3月合併号 Vol.202」)
Text/Takehiro Hakusui Illustrator/Maki Kanai
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