『セガ 体感ゲームの時代 1985-1990』の著者・黒川文雄インタビュー「ゲームに未来の可能性が詰まっていたアノコロ」

  • 2025.05.07

ゲームセンターの店内に鎮座した体感ゲームマシンは、プレイヤーがゲームの世界に入り込みリアルな快感を味わわせてくれた。体感ゲームを生み出し、この分野の先駆者だったセガの業績と開発者の重要な証言をまとめた書籍『セガ 体感ゲームの時代 1985-1990』(東京ニュース通信社)が好評販売中だ。セガOBであり、著者・黒川文雄に体感ゲームへの思い入れと、取材の収穫などについて話を聞く。

ゲームが映像の未来につながるという予感

『セガ 体感ゲームの時代 1985-1990』(東京ニュース通信社) ¥2,420円

「人に興味があり、人の話を聞くのがおもしろい」と黒川文雄は言う。黒川が著した最新書籍『セガ 体感ゲームの時代 1985-1990』は、セガの体感ゲーム機を生み出した当時の開発者たちの証言を集めて、アーケードゲームが熱かった時代を浮き彫りにしている。ゲームの内容よりも人に強く心を惹かれる黒川の性分は、彼の多彩な経歴の影響が伺える。

黒川 中学、高校、大学を通じて音楽が好きで、1984年に大学を卒業してレコード会社のアポロン音楽工業に入ったんですけど、入社後は愛知県を中心とした中部圏で営業活動していました。当時のアポロンは演歌とかカラオケとかBGMを中心に作っていて、思っていたような会社じゃなかったんですよね。3年後、念願かなって、本社に戻ってディレクター職になったんですが、世間はニューミュージックとか、EPIC(エピック)ソニーやCBSソニー(現・ソニーミュージック)のカッコいい音楽を聴いていて、アポロンでの仕事は自分のやりたいものと違うからやめようと思いました。

それで1988年末、日経新聞(日本経済新聞)に15段全部抜いて掲載されたギャガ(当時はギャガ・コミュニケーションズ)の人材募集告知を見ておもしろそうな会社だなと思って、面接を受けました。子供の頃父親に連れられて映画を観ていたので、自分が好きだった総合芸術の映画の会社に行ってみようとギャガに入社しました。そうしたら、すごくおもしろかった。できたばかりの会社だし、今考えるとよくあんな映画を配給したなという作品が多いのですけれど。いわゆるメジャー大作というよりもインディ作品です。あとはメジャーがピックアップしなかった作品で、なかにはジム・キャリー主演の『マスク』(1994年)など拾いものもありましたね。

映画の宣伝を担当する充実した五年間ではあったんですけど、最後の1年は、資本関係にあったカルチュア・コンビニエンス・クラブの系列会社に出向したんですよ。そこではJリーグの試合を終了後2週間でビデオパッケージしてTSUTAYAの店頭に並べるという業務を担当したのですが、勉強にはなったけれど、あまりおもしろくない。

そんな時に、以前マガジンハウスで編集をやっていた友人が電話をかけてきて「今セガにいるんだけど、宣伝をできる人を探しているから遊びにこない」と言われたんですよ。セガを訪ねたら開発の終盤だった『バーチャファイター』を見せられて。画面を見た時「なんか変だな…?」と思いました。でも、ダンボールみたいなキャラクターなのに、動くや否や人間のようですごいわけですよ。その瞬間、「映画の未来はフルCG(コンピュータグラフィックス)になるんだろうな」と思ったんです。当時、映画におけるCGは撮影中にカメラに映った人とか、電線といった不要なものを消す程度でしたけど、多分これから先はフルCGで映画ができる。実際にその一年後ぐらいに、ピクサーが『トイ・ストーリー』を劇場公開したので、ゲームという最新のテクノロジーが自分の映像の未来につながるんじゃないかと思いました。それがゲーム業界に入ったきっかけです。

黒川文雄/くろかわふみお|昭和35年、東京都生まれ。セガ・エンタープライズ(現・セガ)後はデジキューブを経てデックスエンタテインメントを起業し映像とオンラインゲームを展開した。現在はジェミニエンタテインメントの代表取締役社長として、エンターテインメント関連企業を中心にコンサルティング業務を行う。13年継続開催する黒川塾を企画運営、本書はゲーム考古学者としてのリサーチの賜物。その他著書に『ビデオゲームの語り部たち 日本のゲーム産業を支えたクリエイターの創造と挑戦』(DU BOOKS)など

映画的メソッドでゲームの宣伝に革命をもたらす

「バーチャファイター」のゲーム画面に魅せられてセガに入社した黒川だが、実はゲームのプレイ体験は浅かったという。それでは、本書のタイトルにもなったセガの体感ゲームのプレイ歴はどれほどか。

黒川 いちばんやり込んだのは『ハングオン』でしょうね。1985年にリリースされた頃は社会人二年目ぐらい。アポロンに就職して名古屋にいきなり配属になったんです。だから名古屋でずいぶん遊んだ記憶あるんですよ。名古屋、大須、栄とかにあったゲームセンターでやり込んだ覚えがあるし、あとは歴史に残るような『アウトラン』『R360』(『G-LOC: AIR BATTLE』)あたりは遊んでました。

当時のゲームセンターは24時間営業だから、食事や飲んだ後にゲームをやりに行く。一体感があって動かすゲームは斬新だったわけですよね。「こんな斬新なバイク型のゲームがあるの? バイク好きだから、乗ったらプレイできるかも」という気持ちを感じさせてくれました。ゲーム機自体を動かすもしくはそのイスや筐体が動くという体感ゲームはセガが第一人者で、新しい市場を拓いたのでしょうね。一方で、『ハングオン』でタイムを競うみたいなガチのゲームプレイヤーもいましたよね。

セガの体感ゲーム第一弾となった『ハングオン』。ゲームデザインは鈴木 裕 撮影:玉田 亮

ゲームの体験や知識は少なくても、宣伝担当としての手腕には自信をもっていた。

黒川 僕は、プログラマーでもデザイナーでもありませんが、「宣伝ならできるな」と思ったんですよ。たとえば映画の宣伝なら、制作の最中に「今こういう段階になりました」と予告編第一弾を出し、次いでその予告編第二弾を、というようなことやります。

その頃のゲーム会社の宣伝内容は「こういうのができました、いついつ売ります」だけでした。そこで「誰が作っていて、その開発者がどういうコンセプトで作ったのか、こんなふうに遊んでほしい」、あるいは段階的に「この技は一ヶ月目に紹介して、二ヶ月目は別の技を紹介する」など、ゲーム・コンテンツを長持ちさせる映画的な手法で、ゲームをいかに長くプロモーションができるだろうかと考えたら、それができたんですよ。また、『デイトナUSA』(1993年)では雑誌『Daytona』や、世界文化社さんのカー雑誌とのタイアップなど、他業界とのタイアップをしたのも多分ゲーム業界ではすごく早い時期だったと思うんですよね。『ファイティングバイパース』という格闘ゲームで『ペプシマン』を登場させたのも僕です。それらの映画的な宣伝手法をゲーム業界に持ち込んだんじゃないかなとは自分で思っています。

今でこそゲームの開発スタッフを明示するのは当たり前で、むしろゲームのPRにつながるため積極的に公開しているが、1990年代まではセガや任天堂のように発売元が主流で、クリエイターが表に出るのは堀井雄二や遠藤雅伸、さくまあきらなど一部であった。

黒川 なんでゲーム開発者(クリエイター)の名前を出さなかったかというと、その頃はどのゲームメーカーも上り調子だから他社から(優秀なクリエイターを)引き抜きをするんですよ。それを恐れて、当時のセガの中山隼雄社長は、開発者の名前は極力出さない。出したとしてもメインの一人ぐらいの感じでした。

なので「それじゃダメですよ。スティーヴン・スピルバーグ監督作品みたいなことをイメージしてください。『あっ、スゴそう!』とか思うじゃないですか。ゲーム業界もそういうふうにしていかないと、一般層へのイメージが伝わらない」と言ったんですよ。最初は反対されましたけど、交渉していくうちに認めてもらって。でもその中で鈴木 裕さん(※1)や名越稔洋さん(※2)とかいろんな人が有名になったので、やっぱりクリエイターが出ていくっていうのは大事なことだと思います。

ゲーム業界って長く続いていると思われてるけど、日本ではまだ40年ぐらいの歴史ですよね。多分僕が入った頃でたかだか20年ぐらいの歴史なんです。急激に売上が伸びるし急激にプレイヤー層が広がったけど、その頃は業界にいる人たちのナレッジとかノウハウがまだ未熟だったと思います。そこにいろんな人材、異業種から入った人たちが成熟させていったんじゃないですかね。

※1…すずきゆう。1958年、岩手県生まれ。『ハングオン』『スペースハリアー』『アウトラン』『アフターバーナー』『パワードリフト』『G-LOC: AIR BATTLE』といったアーケード作品を生み出した。92年にセガ初の本格3DCGハードウェアを使用した『バーチャレーシング』を発売し、特に『バーチャファイター』は社会的大ヒットを記録した
※2…なごしとしひろ。1965年、山口県生まれ。1989年にセガへ入社すると『バーチャレーシング』、『デイトナUSA』などにCGデザイナーとして参加。2005年にプロデュースした『龍が如く』は大ヒットシリーズとなっている

ゲームの資料の保存とエンタメ業界への恩返し

黒川は「ゲーム考古学」という活動に取り組んでいる。テレビゲームは文化として若く、最近になってようやく研究の対象としてみなされるようになってきた。

黒川 ゲーム業界は結構高齢化しています。1970年代中盤ぐらいから日本国産のゲームができ始めて、その代表作の一つが『スペースインベーダー』なんですけど、仮にこの当時の開発者さんたちが当時20代だとしても、もう70歳後半ですよね。そうすると亡くなる方も徐々に増えています。2017年にナムコ(現・バンダイナムコエンターテインメント)の中村雅哉会長が、昨年は『ワニワニパニック』を作った石川祝男(しゅくお)さんも亡くなったし…。そういう意味で言うと、先人たちにお話が聞けるうちに聞かなければいけないと思うんです。

さらに、ゲーム会社は過去の資料をあまり保管していないんです。ゲームソフト自体も残しておらず、むしろ民間の団体ががんばってコレクションしているとか、明治大学や立命館大学、東京藝術大学などがハードウェアとかソフトウェアを保存展示しようっていう動きがあります。ゲーム会社で率先して行っているのは、タイトーさんが地方に大きな倉庫に自社のアーケードゲーム筐体と他社もののプラスアルファをメンテナンスと保管しています。もう一つはセガさんですが、かなり数の古いアーケードゲーム筐体をメンテナンスと保管をしていますが、今まで出したものがあまりにも多いから全部は持っていないと思います。だから、当時のことをきちんと当事者=開発者に聞いておかないといけないと思ったんです。その当時の時代背景、そんな中で何があって、どうやって作ったかっていうことはだんだんわからなくなる。僕はゲーム業界とエンタメ産業全般にお世話になったから恩返しをしたい、そしてできることと言えば、そうした人たちを取材するなりして記録すること。そうして何らかをお戻ししないといけないと思ったのが、ゲーム考古学に至るきっかけですよ。

『セガ 体感ゲームの時代 1985-1990』は、ゲーム考古学の取り組みの流れから生まれている。

黒川 ゲームの歴史を調べるにあたって、僕が人生で最初に衝撃を受けたゲームはなんだ?と考えたら、『スペースインベーダー』だったんです。稼働した1978年は、僕は18歳の高校生。友達とオートバイに乗ってゲーム喫茶に行って遊んだ記憶があるんですよ。

じゃあ『スペースインベーダー』の開発者の伝記を作ろうと思って取材を始め、最初に当たったのは、池袋のロサ会館。あそこは戦後の池袋の復興およびエンタメの娯楽の殿堂だったんですよ。ここでのゲームの歴史とかを抜き出してまとめ、『4Gamer』(※3)というWEBメディアに「これを連載にできませんか?」って言ったら「やりましょう」と言ってくれました。その連載をまとめて書籍『ビデオゲームの語り部たち』(※4)ができ上がりました。七年ぐらい連載は続いているのですけど、過去のゲーム開発者に聞けるうちにお話を聞いておかなきゃいけないなと思ったんです。僕はゲームには、そんなに詳しくないけれど人が好きなんですよ。その人がどういう人生で何にインスパイアされてゲームを作り、今を生きているかっていう話を聞いて、それをストーリー化するのがおもしろいから続いてきたって感じですよね。

黒川は『ビデオゲームの語り部たち』といった連載の他に、エンタテインメント系ビジネスの勉強会「黒川塾」を13年間運営している。

黒川 個人で黒川塾という勉強会を13年間、100回(取材はまだ99回開催・5月15日に100回目を開催)やってきたという人は珍しいと思うんですよね。おかげでゲーム業界で僕の名前を言えば「聞いたことあります」程度に知られて、どこのメーカーさんに提案をしてもいきなりノーと言われることはなくなりました。今回出版する書籍『セガ体感ゲームの時代』は、僕がセガに短期間とはいえ在籍していたこともプラスにはなってるはずです。当時のセガの社屋の写真や『ハングオン』のスケッチまで、多くのセガ関係者からご提供いただきました。僕の考えるところの考古学では、「こんな資料が出てきた!」とか「こんなの持ってたんですか!?」みたいなものを重視しています。

『セガ 体感ゲームの時代』に掲載された、『ハングオン』の試作に使われた黄色い筐体のイラスト。開発スタッフが記憶を頼りに描き起こした  イラスト提供:山崎徳昭

※3…日本最大級の総合ゲーム情報サイト。https://www.4gamer.net
※4…正式書名は『ビデオゲームの語り部たち 日本のゲーム産業を支えたクリエイターの創造と挑戦』(DU BOOKS)。『4Gamer』の連載記事から反響の大きかったものを抽出し、加筆修正をしている

「世の中にないものは作ってしまえ!」がセガの企業理念

かつてはセガの社員ではあったが、取材を通じてセガという企業の新たな発見はやはり多かった。

黒川 一つは経営者の力だと思うんですけど、僕も当時仕えた中山隼雄社長の「世の中にないものは作ってしまえ」っていうことと、「ユーザーに対してより良いものを提供する」っていう理念をあらためて感じました。セガのなんでも作っちゃう感じは多分ほかの会社と違うところで、なぜそれができたのかは本に書いているように、中山さんが「とにかくいい人材を採れ」と情熱があって。新しいことを発想できるような人材を採用することに専念させた結果、彼らの才能が五年から十年かかって花開いて。中山さん流の、いい人をとって、いい人を育てて、それがいいソフトやプロダクツを生んで、世の中にないものをみんなで提供するという経営術ですね。多分、人材に関しては金に糸目をつけなかったんだろうと思うんですよ。

この本には、いわゆるレジェンドと呼ばれる開発者がゴロゴロ存在している。特に心を惹かれたという方は誰か。

黒川 絞るのは難しいのですが…。一人は僕も上司として仕えた鈴木 裕さん。彼は理想と現実のバランスをとるのがすごく上手いんですよ。あとおもしろいのは、自分の過去に執着していない。自分がこれを作ったっていう、いわゆる“昔の名前で出てます”みたいな人は多いけれど、裕さんは、そこにこだわらずに常に明日を見ている。

もう一人挙げれば、石井洋児さん(※5)。石井さんは鈴木さんより2つ、3つ先輩なんですけど、セガの黎明期のゲームクリエイターシーンを開拓した方。僕が入社した90年代中盤はコンシューマー(家庭用)ゲームの責任者でしたけど、過去には業務用もやったし、ゲームの効果音なども作っています。黎明期にすごく活躍して、なおかつその後もずっとセガのコンテンツをどう盛り上げていくかということを考えたすばらしい能力と才能を持った人だとあらためて感じました。

あの頃のセガには、業務用ゲーム開発部署と家庭用ゲーム開発部署の間には長くて深い川があったから、「まとめて一緒にして両方に相乗効果が出るようなプロモーションをやらないとダメですよ。その改革のために僕をマーケティング部門の最高責任者にしてください」と中山隼雄社長に提案したのですが、「君の言うとおりだけど、今それをやるとたくさん血が流れるからできない」と言われたんです。その時に、この状態でこれから先も勤務するのは嫌だなと思って、もうセガをやめてもいいなと思って辞めたんです。

その何年か後には業務用と家庭の垣根がなくなっていくわけです。さらには、時代の流れで、業務用のゲームは徐々になくなってしまった。業務用ゲーム自体がプライズのUFOキャッチャーとプリントクラブがメインになっているじゃないですか。業務用だろうが家庭用だろうがプライズだろうが、いずれにしろひとつのコンテンツにまとまっていくんです。だから90年代の半ばに一本化しませんかと言ったけどできなかった。それでもセガでやらせてもらえたことは感謝していますし、辞めてかったと思っていますよ。セガもあの頃とは異なる部分では、過去に開発した『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』などのキャラクターを活用したコンテンツプロバイダーに変貌しつつあるように感じます。

※5…1955年、東京都生まれ。78年にセガに入社。研究開発部でゲームサウンドの制作を担当し、後に企画セクションへ異動すると鈴木 裕とのコンビで『ハングオン』や『アウトラン』などを手がけた

黒川もセガ在籍時には「世の中にないものをやってやる」と当然意識していた。

黒川 僕はものづくりじゃないですけど、セガにいた頃、“世の中にない展開”を作ろうと思っていました。

ゲームはゲームセンターに置かれていると、通りかかれば誰でも見るじゃないですか。なので、僕がやろうとしたのは、ゲーム画面の中に実際のクライアントや企業広告、ブランドなどを入れることで、ゲームモニターを広告メディアにするということでした。サッカーゲームでスタジアムの周りに「JVC」(当時の日本ビクター)とロゴを入れる、雑誌社とのタイアップで車体にそのロゴを出す、ゲームのキャラクターが勝つと「JAVA TEA」(大塚製薬)を飲む、『ファイティングバイパーズ』(1995年)というゲームではペプシマンが出てきて「シュー」ってやるとか…。あの一連の展開は僕の仕込みです。マーケティングの視点で言っても、あの時代にそんなことできた人は他にいません。そういうのを考える人もいなかったし、考えてもやれる人がいなかった。何より、3次元コンピュータ・グラフィックスになって表現力が上がってできるようになったのは、90年代以降ですよ。それまではドットですから「ドットでうちの商品出されてもイメージがわかない…」という感じだったと思います。今はお互いの業界のポテンシャルがわかったからゲーム業界と組みたいという会社はいっぱいあるけれど、あの頃のゲーム業界は「ゲームなんか価値あるの?」ぐらいに思われていた時代でしたから、僕も新しいことにチャレンジできる、いい時代にそこにいたのだと思います。

アーケードゲームにしても、体感ゲームとビデオゲームとでは開発スタッフの気質や能力などに違いはあるのか。

黒川 基本は一緒です。これも本のなかで触れているのですが、体感ゲームを作ったのはメカニクスを作っている人たちだから、ソフト自体はそんなに特別なことをしていないという論調がある。小口久雄さん(※6)が「バイクを倒す、飛行機を上下に動かすことは、ハードウェア側のアイデアだから、そこを履き違えると大きな問題だよ」ということを言っています。だからもちろんソフトも斬新だったけど、それをよりおもしろくするためのハード側の思考がセガはすごく強かったと思いますよ。そして、それができる技術力もあった人もいた。「どうしたらよりびっくりさせられるか」「どうしたらよりリアルに感じられるか」を考えていたのは、ハード開発の人だと思います。

ゲームの企画は、両方から上がってきます。どちらかというとソフトなんだけど、ソフトをよりおもしろくするためにハードでどうするか、みたいな。『R360』というハードは、中に入れるソフトのために作ったわけじゃないんですよ。たまたま『G-LOC: AIR BATTLE』っていう戦闘機のゲームがはまりそうだというので入れただけなんですよ。だから、『R360』はハード思考で作られているんですよ。あの頃のセガは、ソフトとメカの両輪のバランスが絶妙に調和していたのでしょうね。

1990年11月にセガが発表した、x軸とz軸方向に360度の回転機構をもつ体験型ゲーム筐体「R360」。高額のため150台限定で生産された  写真提供:吉本昌男

※6…おぐちひさお。1960年、長野県生まれ。1984年にセガに入社、89年に『スーパーモナコGP』(1989年)の企画・開発を担当した。2004年にセガ代表取締役に就任

体感ゲームがエンタテインメントに与えた影響

体感ゲームの発展は「R360」でピークに達し、次第にその存在感を失っていく。体感ゲームは役割を終えてしまったのだろうか。

黒川 まずコスト的に合わない。何よりもVRやMR、大規模なテーマパークなど、よりリアルな世界に没入できるものができてしまった。たとえば畳二畳で体をぐるぐる回される機械に乗るよりも、もっとリアルで、もっと楽しい場所がいっぱいできてしまったってことが、体感ゲームやアーケードゲームがだんだんなくなっていった要因のひとつだと思うんですよ。

もう一つの理由は、グラフィック。3次元コンピューターグラフィックスがあまりにも進化して、目の前に映画のような映像がゲーム画面に出てくるわけで、それだけでもびっくりするじゃん…ということですね。3次元コンピューターグラフィックスのゲームを置く方が効率がいいですよ。

とはいえ、体感ゲームはエンターテイメントに大きな影響を与え、没入感を感じる装置としの入口としての役割を果たしていたことは事実。

黒川 VR以前の時代に「人間をいかにびっくりさせるか、リアルにシミュレーション的なものに感じさせるか」という点で言えば、体感ゲームに勝るものはなかったわけですから。テクノロジーがより進んだから、テーマパークに行けばこれ以上に楽しめるものもあるから。インターネットがつながり、ライフスタイル自体も変わりました。僕はかつて映画の未来はゲームにあるかもしれないと思ったけど、体感ゲームの未来は3次元コンピューターグラフィックスにあって、3次元コンピューターグラフィックスがあまりにも進みすぎてフェイク動画とかを作ることもできる。そういう時代になったから、もうみんなが何やってもびっくりしなくなっちゃいましたね。

ゲーム考古学の取り組みはこれからも続いていく。本書に続いてどんな内容の本を書こうと思っているのだろうか。

黒川 第一義はやっぱりゲームなので、これから先も取材を続けて行くと思います。その結果として「ビデオゲームの語り部たち」の連載は続けたいと思います。その中からまたおもしろいテーマがあれば、別に一冊書いてみたい。おかげさまでネットの声のなかには「旧ナムコ編も書いてください」とか、うれしい反響がいろいろあるんですよ。僕は人の話を聞きたいから、ものよりはそのものを作った人の話が今回みたいにかけるとやりがいはあると思っています。あとは、ゲーム会社とそこで働く人をテーマにした小説を書いてみたい。まだこれから修正や追加取材をしないといけないのですが、情熱が続く限りやってみたいですね。

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