古い真空管ラジオから始まったラジオデイズ
「そりゃ、僕のガキの頃はさ、音楽の情報を収集するには雑誌、そしてラジオしかなかったからさ(笑)」
そう言って伊藤政則、いやセーソクさんはお馴染みの声で笑った。ハードロック/ヘヴィメタルを、いや音楽を聴いてきた昭和50年男のなかに、セーソクさんを知らぬ人間はいない。いつでも最先端の現場に出て、そこで得たコアな情報をラジオ、テレビ、そして文章に至るまで彼特有の”セーソク節”でオレたちに余すことなく語り尽くしてくれる。まさに音楽の伝道師である。
そんなセーソクさんのラジオデイズは岩手から始まった。
「少年時代のメディアといったらテレビ、ラジオなわけだよね。テレビは遠い存在なんだけど、ラジオは比較的近いところにあったんだ。地元の岩手放送(IBC)というラジオ局では、地元の大学生がDJをやったりしていたし」
中学生にもなると、深夜放送にも触手を伸ばす。
「トークだけじゃなく、音楽も聴けることが大きかったね。リクエストはがきを出して読まれるようになったりすると、もうのめり込んじゃってさ。そのうち、もっといろんな番組を聴きたくなったんだけど、トランジスタラジオだと限界があるじゃない。そうしたらお祖母ちゃんが”これならどうだ”って、昔の真空管ラジオをくれたわけ。これがものすごく遠くの電波を拾うんだよ」
必死にチャンネルをいじくり回すうち、毎日放送(現・MBS)の『ヤングタウン』がうっすら聴こえてきた。
「桂三枝(現・桂文枝)さんと斎藤努さんの日に、キザなことを書くと時計とかステッカーがもらえる”めちゃキザ”コーナーってのがあったんだよね。でも読まれるかわからないから、とりあえず”岩手県立花巻北高校3年C組・伊藤政則”と書いて出したんだ。そしたらある日呼び出しがきてさ。MBSからステッカーが届いたんだ。”学校名でラジオに投稿するな!”って先生に怒られてさぁ(笑)」
他にも高校時代は深夜放送の雄・ニッポン放送の『オールナイトニッポン』を愛聴した。
「糸居五郎さん、亀渕昭信さん、斉藤安弘さん(※1)、今仁哲夫さんといったアナウンサーの方々が中心だった頃で…他の方の番組も聴いていましたが、なんというか、いちばん肌に合ったんですよね」
ラジオに熱中する高校時代を経て、セーソクさんは大学進学のために上京する。
「新宿の歌舞伎町にレインボーというロック喫茶があって、深夜12時くらいから始発が動くまで、リクエストをもらってレコードをかけるDJのアルバイトを始めたんですよ」
もうこの頃は音楽が生活の中心だった。東京ではロック喫茶で、帰省中は岩手放送のレコード室でアルバイトをして資金を貯め、当時のロックの震源地・ロンドンへ2ヶ月ほど渡って、本場の音楽に触れていた。そんな時、セーソクさんはレインボーで運命の誘いを受ける。
「『オールナイトニッポンのアシスタントディレクターのアルバイトがあるらしいぞ』って言う人がいて、紹介してもらって“ビバルーム”へ行くことになったんだよ」
※1…亀渕昭信と斉藤安弘は「カメ&アンコー」として深夜放送ブームをつくり、亀渕は後にニッポン放送社長に、斉藤は現在もラジオ番組を担当している。
プロデューサーのひと言でADがDJに大抜擢
ビバルームは『オールナイトニッポン』の制作チーム。ちょうど1974年から二部制がとられ、番組も増えた時期だった。
「当時はプロデューサーと局のディレクターはいるんだけど、現場はほとんどフリーの人たちでしたね。制作スタッフ3人、デスクの女性1人と、あとはもう僕みたいな“パシリ”的な若手が2人、合わせて6人くらいでまわしていたんじゃないかな。土曜日を笑福亭鶴光さんが担当して、平日は吉田拓郎さんやイルカさん、かぐや姫の山田パンダさんに武田鉄矢さんとか、フォークシンガーの方が多かった時期ですね。あとは当時二部を担当していた糸居五郎さんのADにも付きました」
糸居五郎は戦中に満洲でアナウンサーを始めたベテランDJで、日本のラジオでビートルズを最初にかけた人物。パーソナリティのトーク中心となっていた『オールナイトニッポン』のなかで、ただひとり音楽を中心としたDJスタイルを守り続けたことで知られている。
「といっても、ADのアシスタントみたいな立場だったけどね。糸居さんはアメリカンDJスタイルで、しゃべりは最低限にしてひたすら音楽をかけるんですよ。局にあるレコードだけじゃなく、ご自分で大量に持ち込まれたものをずらっと床に並べて、2台のプレイヤーにご自分でかけていく。こちらはコマーシャルの指示を出すくらいでしたね。その頃の糸居さんはディスコミュージックをよくかけていらっしゃいました。アメリカのディスコ協会の会合へ行って、レポートを入れたりしていたことを覚えています」
こうしてADとして働いていたセーソクさんに注目する人物が現れる。
「ニッポン放送のスタッフが僕を見て『あいつは誰だ?』とよく言っていたらしいんですよ。局内にいる人たちはスーツを着て働いているのに、長髪でベルボトム履いた人間が歩いているんだから、そりゃそうだよね(笑)」
声をかけてみると音楽の知識もあるし、話がおもしろい。スタッフ間の「変わっていておもしろいヤツ」というウワサは、当時、『オールナイトニッポン』のチーフディレクターを務める岡崎正通(※2)の耳にも届いた。既知の間柄であった岡崎はセーソクさんに話しかけた。
「岡崎さんから『お前、おもしろいらしいじゃないか。ちょっとデモを作ってみないか』と言われて、10分くらいのデモテープを作ることになっちゃった。ビバルームの人たちに相談したら『どうせならメチャクチャなことやってやれよ』って言うからさ、とにかくメチャクチャなことをやったんですよ(笑)」
それを聴いた岡崎は「おもしろい」とうなずいた。そして、とんでもない提案をした。
「どうだ、2部でDJとして番組をやってみろ」
ADとしてビバルームに入って半年ほどのことだった。
※2…本名は近衛正通。『オールナイトニッポン』チーフプロデューサーとして中島みゆき、タモリ、ビートたけしなどを起用。音楽評論家としても活動。
カッコマンから音楽評論家・伊藤政則へ
「伊藤なんて名前を誰も知らないから、覆面DJということでいくことにした。宇崎竜童さんが”カッコマン”という名前をつけてくれて…それが僕のデビューですね」
75年7月3日から『カッコマンのオールナイトニッポン』が始まった。10月には木曜から水曜の2部へ移って、計半年間放送されたことになる。
「ただ、もともと”こまわりくん”って呼ばれていたから、『こまわりくんあらためカッコマンのオールナイトニッポン』とか番組名もめちゃくちゃ。ビバルームの人たちも、普段遊べない分、僕の番組で遊ぼうとするんですよ」
いくら”おもしろいヤツ”とはいえ、いきなり2時間の放送を乗り切るのはハードルが高い。だが、セーソクさんはそれをあっさり乗り切ってしまう。
「『オールナイトニッポン』ってみんな好き勝手にしゃべっていたんですよ。武田鉄矢さんとかエロネタばかりだったし(笑)。そういうのを見て、とにかく自由にしゃべろうと決めた。いろいろ考えましたね。CM前のジングルの時に笑える下ネタをひとつ言うとかね。自分が放送作家になったような気持ちで番組をしていました」
ただ、なかなか選曲に関しては自由がきかなかった。
「『ロックもやらせてよ!』って訴えたら、ちょうどドゥービー・ブラザーズの来日公演があった時で、メンバーが全員スタジオに来ちゃった。もうスタジオが狭くて狭くて(笑)」
DJの一方で、AD業務も続けていた。夕方からビバルームに詰めていると、レコード会社の人たちが宣伝に訪れる。
「『え? キミがカッコマンなの? ロック好きなら今度出すレコード聴いてみてよ。エアロスミスっていうんだけどさ』なんて」
こうして業界にも知り合いが増えていく。
「『ロックに詳しいならライナーノーツも書いてみないか?』なんて誘われたり…。そこから文章も書くようになって、二刀流になって今に至る感じかな」
こうしてカッコマンは音楽評論家・伊藤政則となっていった。70年代末に再びイギリスに渡ったセーソクさんは、アイアン・メイデンやデフ・レパードといった”ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル”(NWOBHM)のムーヴメントをいち早く日本に伝えた。その後アメリカに行っては、メタリカをはじめとする西海岸の新しいメタルの流れを紹介…などなど、数々の業績はもはや語るまでもないだろう。
『夕やけニャンニャン』でレーティングアップ!
セーソクさんが自ら取材したコアな音楽情報を伝えるのは文章であり、ラジオであった。
「83年かな。ニッポン放送の方から”夜10時台の放送を強化したい”というお話をもらったんですよ」
83年からニッポン放送の夜10時台は『ヤングパラダイス』が放送されていた。月曜から木曜で高原兄けいが、金曜日は電リク番組としてコント赤信号がパーソナリティを務めていた。しかし、この時間帯の王者として君臨していたのは文化放送の『吉田照美のてるてるワイド』だった。
「そこで佐々さん(※3)というディレクターさんが『月曜から木曜を三宅裕司さんに頼んで、金曜日は音楽の番組にするから、やってみないか』と。3時間の番組のなかで、1時間はアイドル、1時間は日本のロック、そしてあと1時間を洋楽で構成したいという話でしたね。『でもオレはアイドル知らないよ?』って言ったんだけど『それでもいい』と。日本のロックに関してはちょうどBOØWYが出てきた頃で、佐々さんのなかには『絶対これから日本のロックがくる』という確信があったんだね」
こうして翌年の2月から『三宅裕司のヤングパラダイス』、『伊藤政則のTOKYOベストヒット』が誕生する。すると、この2番組が『てるてるワイド』から夜10時台の覇権をニッポン放送へ取り戻したのだ。
「常に大丈夫かな…って気持ちでやっていたんですよ。しかも途中で、アシスタントが前番組からのコント赤信号に代わって、おニャン子クラブの子たちを入れる話になった。『だからさ、オレはアイドルを知らないんだって』と言ったら『わかった、「夕やけニャンニャン」の水曜レギュラーでコーナーに出てもらうようにしておいたから』って。わけわかんないよ(笑)」
セーソクさんが『夕やけニャンニャン』に出演していたのには、こういう経緯があったのだ。
「ディレクターの港さん(※4)にあいさつしたら『ニッポン放送から聞いてるよ! たださ…、コーナー(内容は)何も考えてないんだけど、どんなのがいいの?』。こっちだってわからない。でも来週からだから、『TOKYOベストヒット』にも作家でついていてくれた遠藤(察男)さんに相談して『誰も知らなかったヘビメタ』ってコーナーを始めたんだ」
第1回目の内容は、ヘヴィメタルのミュージシャンのブーツの高さについて紹介するものだった。
「結局何回かやった後に、『TOKYOベストヒット』でもアシスタントをしていた立見里歌にクイズを出すっていうコーナーに変わってね。それをやっていたら『TOKYOベストヒット』のレーティングも上がっていったんですよ」
※3…佐々智樹。『オールナイトニッポン』『コッキーポップ』などのディレクター。現在はスウェーデン・ジャズの普及活動を行っている。
※4…港浩一。『とんねるずのみなさんのおかげです』などのディレクター、プロデューサーを務め、フジテレビバラエティの時代を作った。
伊藤政則/いとうせいそく
昭和28年、岩手県生まれ。音楽評論家、DJ。ロックに没頭する青春期を過ごす。『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)のADを経て1975年から『オールナイトニッポン』第2部DJを担当。79年渡英時にNWOBHMを経験し、ヘヴィメタルを日本に紹介した。『POWER ROCK TODAY』(bayfm)は前身番組から含めると40年以上の歴史を誇る。
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(出典/「昭和50年男 2023年11月号 Vol.025」)
取材・文:一角二朗 撮影:吉場正和
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