俺たちの青春! ヘヴィメタルのカリスマ伝道師・伊藤政則が語る、俺たちがメタル魂を育んだ神番組の長い歴史の証言【前編】

  • 2025.04.12

“メダルゴッド”こと伊藤政則が、土曜深夜約4時間にわたってHR/HMを流し、熱いトークを展開するロック専門番組が『POWER ROCK TODAY』(bayfm78)だ。オレたちのメタル魂を育んだこの神番組の長い歴史の証言をとくとご堪能あれ! ※『POWER ROCK TODAY』(bayfm78/土曜25:00~28:53)ホンモノ志向のファンのために、ハードロックとヘヴィメタルの真髄を伝えるロック専門番組。毎年成人の日には特別版『MAXIMUM POWER ROCK TODAY』を放送している。

古い真空管ラジオから始まったラジオデイズ

「そりゃ、僕のガキの頃はさ、音楽の情報を収集するには雑誌、そしてラジオしかなかったからさ(笑)」

そう言って伊藤政則、いやセーソクさんはお馴染みの声で笑った。ハードロック/ヘヴィメタルを、いや音楽を聴いてきた昭和50年男のなかに、セーソクさんを知らぬ人間はいない。いつでも最先端の現場に出て、そこで得たコアな情報をラジオ、テレビ、そして文章に至るまで彼特有の”セーソク節”でオレたちに余すことなく語り尽くしてくれる。まさに音楽の伝道師である。

そんなセーソクさんのラジオデイズは岩手から始まった。

「少年時代のメディアといったらテレビ、ラジオなわけだよね。テレビは遠い存在なんだけど、ラジオは比較的近いところにあったんだ。地元の岩手放送(IBC)というラジオ局では、地元の大学生がDJをやったりしていたし」

中学生にもなると、深夜放送にも触手を伸ばす。

「トークだけじゃなく、音楽も聴けることが大きかったね。リクエストはがきを出して読まれるようになったりすると、もうのめり込んじゃってさ。そのうち、もっといろんな番組を聴きたくなったんだけど、トランジスタラジオだと限界があるじゃない。そうしたらお祖母ちゃんが”これならどうだ”って、昔の真空管ラジオをくれたわけ。これがものすごく遠くの電波を拾うんだよ」

必死にチャンネルをいじくり回すうち、毎日放送(現・MBS)の『ヤングタウン』がうっすら聴こえてきた。

「桂三枝(現・桂文枝)さんと斎藤努さんの日に、キザなことを書くと時計とかステッカーがもらえる”めちゃキザ”コーナーってのがあったんだよね。でも読まれるかわからないから、とりあえず”岩手県立花巻北高校3年C組・伊藤政則”と書いて出したんだ。そしたらある日呼び出しがきてさ。MBSからステッカーが届いたんだ。”学校名でラジオに投稿するな!”って先生に怒られてさぁ(笑)」

他にも高校時代は深夜放送の雄・ニッポン放送の『オールナイトニッポン』を愛聴した。

「糸居五郎さん、亀渕昭信さん、斉藤安弘さん(※1)、今仁哲夫さんといったアナウンサーの方々が中心だった頃で…他の方の番組も聴いていましたが、なんというか、いちばん肌に合ったんですよね」

ラジオに熱中する高校時代を経て、セーソクさんは大学進学のために上京する。

「新宿の歌舞伎町にレインボーというロック喫茶があって、深夜12時くらいから始発が動くまで、リクエストをもらってレコードをかけるDJのアルバイトを始めたんですよ」

もうこの頃は音楽が生活の中心だった。東京ではロック喫茶で、帰省中は岩手放送のレコード室でアルバイトをして資金を貯め、当時のロックの震源地・ロンドンへ2ヶ月ほど渡って、本場の音楽に触れていた。そんな時、セーソクさんはレインボーで運命の誘いを受ける。

「『オールナイトニッポンのアシスタントディレクターのアルバイトがあるらしいぞ』って言う人がいて、紹介してもらって“ビバルーム”へ行くことになったんだよ」

※1…亀渕昭信と斉藤安弘は「カメ&アンコー」として深夜放送ブームをつくり、亀渕は後にニッポン放送社長に、斉藤は現在もラジオ番組を担当している。

プロデューサーのひと言でADがDJに大抜擢

ビバルームは『オールナイトニッポン』の制作チーム。ちょうど1974年から二部制がとられ、番組も増えた時期だった。

「当時はプロデューサーと局のディレクターはいるんだけど、現場はほとんどフリーの人たちでしたね。制作スタッフ3人、デスクの女性1人と、あとはもう僕みたいな“パシリ”的な若手が2人、合わせて6人くらいでまわしていたんじゃないかな。土曜日を笑福亭鶴光さんが担当して、平日は吉田拓郎さんやイルカさん、かぐや姫の山田パンダさんに武田鉄矢さんとか、フォークシンガーの方が多かった時期ですね。あとは当時二部を担当していた糸居五郎さんのADにも付きました」

糸居五郎は戦中に満洲でアナウンサーを始めたベテランDJで、日本のラジオでビートルズを最初にかけた人物。パーソナリティのトーク中心となっていた『オールナイトニッポン』のなかで、ただひとり音楽を中心としたDJスタイルを守り続けたことで知られている。

「といっても、ADのアシスタントみたいな立場だったけどね。糸居さんはアメリカンDJスタイルで、しゃべりは最低限にしてひたすら音楽をかけるんですよ。局にあるレコードだけじゃなく、ご自分で大量に持ち込まれたものをずらっと床に並べて、2台のプレイヤーにご自分でかけていく。こちらはコマーシャルの指示を出すくらいでしたね。その頃の糸居さんはディスコミュージックをよくかけていらっしゃいました。アメリカのディスコ協会の会合へ行って、レポートを入れたりしていたことを覚えています」

こうしてADとして働いていたセーソクさんに注目する人物が現れる。

「ニッポン放送のスタッフが僕を見て『あいつは誰だ?』とよく言っていたらしいんですよ。局内にいる人たちはスーツを着て働いているのに、長髪でベルボトム履いた人間が歩いているんだから、そりゃそうだよね(笑)」

声をかけてみると音楽の知識もあるし、話がおもしろい。スタッフ間の「変わっていておもしろいヤツ」というウワサは、当時、『オールナイトニッポン』のチーフディレクターを務める岡崎正通(※2)の耳にも届いた。既知の間柄であった岡崎はセーソクさんに話しかけた。

「岡崎さんから『お前、おもしろいらしいじゃないか。ちょっとデモを作ってみないか』と言われて、10分くらいのデモテープを作ることになっちゃった。ビバルームの人たちに相談したら『どうせならメチャクチャなことやってやれよ』って言うからさ、とにかくメチャクチャなことをやったんですよ(笑)」

それを聴いた岡崎は「おもしろい」とうなずいた。そして、とんでもない提案をした。

「どうだ、2部でDJとして番組をやってみろ」

ADとしてビバルームに入って半年ほどのことだった。

※2…本名は近衛正通。『オールナイトニッポン』チーフプロデューサーとして中島みゆき、タモリ、ビートたけしなどを起用。音楽評論家としても活動。

カッコマンから音楽評論家・伊藤政則へ

「伊藤なんて名前を誰も知らないから、覆面DJということでいくことにした。宇崎竜童さんが”カッコマン”という名前をつけてくれて…それが僕のデビューですね」

75年7月3日から『カッコマンのオールナイトニッポン』が始まった。10月には木曜から水曜の2部へ移って、計半年間放送されたことになる。

「ただ、もともと”こまわりくん”って呼ばれていたから、『こまわりくんあらためカッコマンのオールナイトニッポン』とか番組名もめちゃくちゃ。ビバルームの人たちも、普段遊べない分、僕の番組で遊ぼうとするんですよ」

いくら”おもしろいヤツ”とはいえ、いきなり2時間の放送を乗り切るのはハードルが高い。だが、セーソクさんはそれをあっさり乗り切ってしまう。

「『オールナイトニッポン』ってみんな好き勝手にしゃべっていたんですよ。武田鉄矢さんとかエロネタばかりだったし(笑)。そういうのを見て、とにかく自由にしゃべろうと決めた。いろいろ考えましたね。CM前のジングルの時に笑える下ネタをひとつ言うとかね。自分が放送作家になったような気持ちで番組をしていました」

ただ、なかなか選曲に関しては自由がきかなかった。

「『ロックもやらせてよ!』って訴えたら、ちょうどドゥービー・ブラザーズの来日公演があった時で、メンバーが全員スタジオに来ちゃった。もうスタジオが狭くて狭くて(笑)」

DJの一方で、AD業務も続けていた。夕方からビバルームに詰めていると、レコード会社の人たちが宣伝に訪れる。

「『え? キミがカッコマンなの? ロック好きなら今度出すレコード聴いてみてよ。エアロスミスっていうんだけどさ』なんて」

こうして業界にも知り合いが増えていく。

「『ロックに詳しいならライナーノーツも書いてみないか?』なんて誘われたり…。そこから文章も書くようになって、二刀流になって今に至る感じかな」

こうしてカッコマンは音楽評論家・伊藤政則となっていった。70年代末に再びイギリスに渡ったセーソクさんは、アイアン・メイデンやデフ・レパードといった”ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル”(NWOBHM)のムーヴメントをいち早く日本に伝えた。その後アメリカに行っては、メタリカをはじめとする西海岸の新しいメタルの流れを紹介…などなど、数々の業績はもはや語るまでもないだろう。

『夕やけニャンニャン』でレーティングアップ!

セーソクさんが自ら取材したコアな音楽情報を伝えるのは文章であり、ラジオであった。

「83年かな。ニッポン放送の方から”夜10時台の放送を強化したい”というお話をもらったんですよ」

83年からニッポン放送の夜10時台は『ヤングパラダイス』が放送されていた。月曜から木曜で高原兄けいが、金曜日は電リク番組としてコント赤信号がパーソナリティを務めていた。しかし、この時間帯の王者として君臨していたのは文化放送の『吉田照美のてるてるワイド』だった。

「そこで佐々さん(※3)というディレクターさんが『月曜から木曜を三宅裕司さんに頼んで、金曜日は音楽の番組にするから、やってみないか』と。3時間の番組のなかで、1時間はアイドル、1時間は日本のロック、そしてあと1時間を洋楽で構成したいという話でしたね。『でもオレはアイドル知らないよ?』って言ったんだけど『それでもいい』と。日本のロックに関してはちょうどBOØWYが出てきた頃で、佐々さんのなかには『絶対これから日本のロックがくる』という確信があったんだね」

こうして翌年の2月から『三宅裕司のヤングパラダイス』、『伊藤政則のTOKYOベストヒット』が誕生する。すると、この2番組が『てるてるワイド』から夜10時台の覇権をニッポン放送へ取り戻したのだ。

「常に大丈夫かな…って気持ちでやっていたんですよ。しかも途中で、アシスタントが前番組からのコント赤信号に代わって、おニャン子クラブの子たちを入れる話になった。『だからさ、オレはアイドルを知らないんだって』と言ったら『わかった、「夕やけニャンニャン」の水曜レギュラーでコーナーに出てもらうようにしておいたから』って。わけわかんないよ(笑)」

セーソクさんが『夕やけニャンニャン』に出演していたのには、こういう経緯があったのだ。

「ディレクターの港さん(※4)にあいさつしたら『ニッポン放送から聞いてるよ! たださ…、コーナー(内容は)何も考えてないんだけど、どんなのがいいの?』。こっちだってわからない。でも来週からだから、『TOKYOベストヒット』にも作家でついていてくれた遠藤(察男)さんに相談して『誰も知らなかったヘビメタ』ってコーナーを始めたんだ」

第1回目の内容は、ヘヴィメタルのミュージシャンのブーツの高さについて紹介するものだった。

「結局何回かやった後に、『TOKYOベストヒット』でもアシスタントをしていた立見里歌にクイズを出すっていうコーナーに変わってね。それをやっていたら『TOKYOベストヒット』のレーティングも上がっていったんですよ」

※3…佐々智樹。『オールナイトニッポン』『コッキーポップ』などのディレクター。現在はスウェーデン・ジャズの普及活動を行っている。
※4…港浩一。『とんねるずのみなさんのおかげです』などのディレクター、プロデューサーを務め、フジテレビバラエティの時代を作った。

伊藤政則/いとうせいそく
昭和28年、岩手県生まれ。音楽評論家、DJ。ロックに没頭する青春期を過ごす。『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)のADを経て1975年から『オールナイトニッポン』第2部DJを担当。79年渡英時にNWOBHMを経験し、ヘヴィメタルを日本に紹介した。『POWER ROCK TODAY』(bayfm)は前身番組から含めると40年以上の歴史を誇る。

▼後編はこちらから

俺たちの青春! ヘヴィメタルのカリスマ伝道師・伊藤政則が語る、俺たちがメタル魂を育んだ神番組の長い歴史の証言【後編】

俺たちの青春! ヘヴィメタルのカリスマ伝道師・伊藤政則が語る、俺たちがメタル魂を育んだ神番組の長い歴史の証言【後編】

2025年04月14日

(出典/「昭和50年男 2023年11月号 Vol.025」)

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